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別府 晋介
弘化4年、鹿児島吉野実方で別府十郎の第二子として生まれる。名は景長、通称を晋介という。
従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。戊辰戦争(1868)では、城下四番小隊(隊長川村純義)の分隊長として、白河城防戦、棚倉・二本松戦で戦い、会津若松進撃の際は川村指揮のもと十六橋の戦いで勇戦した。明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊中の小隊長となった。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
明治5年、西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼少佐・河村洋与少佐とともに花房義質外務大丞の随員という形で釜山に赴き、韓服を着、韓帽を戴き、変装して二ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道(韓国)を蹂躙(じゅうりん)するは、我二三箇中隊にして足れり」(『西南記伝』)と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。
明治6年、征韓論が破裂して西郷隆盛が下野すると、すぐさま少佐の職をなげうって鹿児島に帰った。
西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31歳。
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