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■榎本武揚の助命 |
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東京生まれ。幕臣、政治家。安政3年(1856)長崎海軍伝習所に入所。文久2年(1862)オランダ留学。明治元年(1868)海軍副総裁となる。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。7年(1874)海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任した。
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函館戦争の賊将榎本武揚が降伏し大本営に送られた。またもや、その処分について問題が起こった。長州側は榎本を殺して典刑を正せと唱え、薩摩側は寛典によるべきだと主張してどうしても議論が決しない。
大久保利通と木戸孝允はその決済に困って、一応西郷の意見を問う事に決まって品川弥二郎を使者として薩摩に向わせた。品川が面会して使命を述べると西郷は寛典に依るのが至当の意見であるから、品川はこれに服しない。
元来品川は有名な議論家であるから、熱心に典刑の正すべきと論じ極刑処分を実行しようと努力したが、西郷はどうしても取り上げず、「降参人を殺さぬというのは、日本古来の掟でごわす」と突っぱねるから「それではどう処分する御考えか」と問い詰めると、「駿府の徳川家にお預けになったら宜うごわす」西郷の答えが如何にも無造作であるかで、品川はいよいよせき込んだ。「それは怪しからんお言葉です。
今日新政府の基礎は未だ定まらず、諸藩はなお旧幕府を忘れられない時に、こんな手ぬるい処分はいけないでしょう。特に駿府に預けるとは、寅を野に放つようなものと思います。是非とも死刑にするのが当然かと思いますと反対すると、西郷が言うには、「いかにも君が言う通り賊徒がまた蜂起するかもしれないから、駿府に移すのが良いと言うのでごわす。」幕府の旧臣はまだ何万人もいるでしょう、それらの人達が一度全国各地で蜂起したら、東征北伐の官軍は、その煩わしさに耐え切れず、終には奔命につかれはてるに違いない。だから榎本等を併せて、静岡に集めておけば、たとえ彼等が兵を挙げても一度に皆殺しが出来るでしょう。もしそんな場合になりましたなら、こう申している[西郷が薩摩の兵で鎮定に参ります」品川はこうなっては返す言葉がない。
ひたすら西郷の大度量に感服して、そこそこに帰京して、斯く斯くと復命したから、朝議は寛典に決まって、榎本武揚を助命する事になった。
(西郷隆盛の実像、下竹原弘志より)
福羽美静の証言(1831年〜1907年、津和野藩士、国学者、明治天皇に「古事記」を進講。神祇少副、歌道及び文部省御用係。元元老院議員、貴族院議員、子爵。(西郷隆盛英士の銅像のまへに 国のためつくし 国のためつくし猶々と おもひし君が心尊とさ 上野公園銅像除幕式においての祝歌)
品川弥二郎
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山口県 出身
天保14年閏9月29日(1843年11月20日)生明治33年(1900年)2月26日没品川弥二郎は長州の藩士で、のちに内務大臣から枢密顧問官になった人物。
戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる。 |
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西郷隆盛に学ぶ「敬天愛人」フォーラム21
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