西郷南洲翁遺訓の編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧庄内藩の藩士達によって刊行されたものである。庄内藩では明治22年憲法発布に伴い先生の賊名が除かれ、正三位を追贈されると、翌年1月に遺訓集を作成して、4月から6人の藩士達がこの遺訓集を携えて全国を行脚して、広く頒布したと伝えられている。それではなぜ南洲翁遺訓集が庄内(現在、山形県鶴岡)から出版されたのでしょうか。
明治維新の前夜、三田の薩摩屋敷を焼き払い、多くの死傷者を出した。そして最期まで抵抗した庄内藩の降丈処理として、どんなひどい目に合わされるかと、心配する処、西郷の慈愛を持った寛大な処置に感謝した藩主が家老を伴い七十数名が、政府の要職を去って鹿児島に引退していた、西郷を訪れて親しく教えを受け、その後も庄内藩士が引き続いて先生を訪ね、先生が生前語られた言葉や教訓を記録した手記を、持ち帰って遺訓集を作成したと伝えられている。
第一ケ条
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書仲虺之誥に、「徳懋んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにす」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは、此の義にて候ひしやと請問せしに、翁、欣然として、其通おりぞと申されき。
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申されるので、それでは尚書(中国の最も古い経典、書経)仲虺(殷の湯王 (紀元前1600年前)の大臣)の誥(朝廷が下す辞令書)の中に「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞を多くする」というのがありますが、この意味でしょうかと尋ねたところ、南洲翁は大変に喜ばれて、まったくその通りだと答えられた。
第二ケ条
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。
第三ケ条
政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にするは更に無し。
政治の根本は国民の教育を高め充実して、国の自衛の為に軍備を整理強化し、食料の自給率、安定の為、農業を奨励するという三つである。その他の色々の事業は、皆この三つ政策を助ける為の手段である。この三つの物の中で、時の成り行きによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、この三つの政策を後回しにして、他の政策を先にするというようなことがあっては決してならない。
第四ケ条
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創< |