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隊植木学校
評論新聞が政府の圧迫を受けて終に潰れてしまったので、今度は熊本の林正明が近時評論を発行した。宮崎八郎も客員の一人として常に投書をしていた『日本帝国滅亡の兆候を論ず』植木学校生徒、宮崎八郎と署名していたので、植木学校の名前は天下の人の知るところとなった。
宮崎はもう専制政治の抑圧に耐える考えは無かった、その民権主義は、いずれかの方面に向かって爆発せずにはいられなかったのである、その有名なのが
『戸長征伐』なるものがこれから始まった。
植木学校の教科書にルソーの政理論を加えた事は大いに注目すべきであると思うが、その跡になって見ると少しも危険な事は行なっていなかった、薩摩軍に参加して賊軍の名は免れなかったが、それはただ、当時の政府に反対であったと言うもので、決して皇室にたいして何等の不平はなったのである。
『民会を興そうではないか』
『ふふーむ、民会とは何じゃ』
『人民が集って、一村、一町の政治を議するのじゃ』
無理も無いことで、明治八年の頃に自主とか自治とか言うふうな、新しい制度が解るはずも無い、さすがに宮崎は偉かった、その時既に自治ということに気がついていたのだ。
『戸長とは、昔の庄屋を一歩進めたのが戸長で、戸長は村の人の代表者で政府が任命するから、役人風を吹かせて、何も知らない百姓をいじめるから、これを人民が投票して之を選ぶ、多くの人が選んだ戸長ならば、戸長の方でも自分は人民の名代であるいう考が自然に起ってくる、人民の方も、之は自分たちで選んだものであると思って信頼して事を託すことが出来る。両者の間密接になるから、村の政治も公平になって、人民も自分の責任を重く受け止めるから、ついに県に及び、日本全国の改革が始めて行なわれるのじゃ、一国の事は、何でも小さい人民が原因だから、これから一つ行なって見ようじゃないか、如何じゃ諸君の考えへは・・・』
『しかし、政府が聞くじゃろうか』
『アッハハ・・・・馬鹿なツ、政府が聞くも聞かないも無いさ、政府は人民の物ではないか』
相談は直ちに決して戸長民選の実行に移った、それには先ず、現に戸長を勤めている人にその職を辞して連署の上、民選の法を執ってくれるよう請願を為すのが順序である、という事になって、是から学校の連中が手分けして薦めにかかった。第一番に辞職したのが、山鹿郡古閑村の野満長太郎であった、この人は極めて沈着な思慮の深い人であった、その野満が辞職したと聞いて、野満が辞職するなら俺も辞職するというて、10数名の戸長が一時に辞職してしまった。(1905)
「戸長征伐」この時期の戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満がかさなり。この戸長を民選によることをもとめて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺にて、約1万以上の人民大集会というものも開かれました。
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