西郷隆盛に学ぶ、敬天愛人フォーラム21

 

 

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西郷隆盛に学ぶ 『敬天愛人フォーラム21』
西郷隆盛
西郷隆盛と敬天愛人その教えを学ぶ
西郷隆盛を称えた先人

月刊レーダ2004年5月号 労働問題研究会議

−世界に伝えたい『西郷隆盛の精神』−

 

イラク人質事件


危険をおかした日本人の若者の行動が世界で評価されている。危険をおかして行動した若者に誇りを持つべきである         (パウエル米国務長官)

イラクで日本人三人が人質にされ日本政府や人質の家族が必死で訴える姿が世界中のメディアで放映された。今まで日本の自衛隊が人道支援のためにイラクに派遣している事を知らない人々、又自衛隊は軍隊であり米国に追随していると思っていた人々にも、この事件を通して日本のことが良い面で大きな宣伝になったのではないでしょうか。日本は平和を愛する国。日本人の若者がボランテイアで危険をおかして行動していること。

日本政府が必死に自国民の救出に努力したこと。平和を愛する国として日本を世界にアピール出来たのではないでしょうか。


自己責任

開放された人質に対し『自己責任論』を振りかざし『救出負担の自己負担』まで言い出している小泉政権に、世界中から非難が集っている。「日刊ゲンダイ」4・22仏紙・ルモンドは20日、『若者たちの純真さと無謀さが、死刑制度や難民認定などで国際的に決してよくない日本のイメージを高めた。しかし政府と保守系メディアは、反対に人質の無責任さをコキ下ろしている』

自衛隊派遣も税金であり、今回の事件は自衛隊の派遣に対して、派生的に発生した事件であるから、救出負担金を家族に請求するのは如何なものか。これでは『敵に見方あり、見方に敵あり』で、『日本人の敵は日本人』ということか。人質五人に自己責任があるにせよ、せっかく無事に帰ってきたのだから、人質や家族の方々を、政府は大きな慈愛の心で迎える事が出来ないのか、残念である。


『南洲翁遺訓』十九編 


(いにしえ)より君臣(くんしん)(とも)(おのれ)れを()れりとする()に、治功(ちこう)(あが)りたるはあらず。自分(じぶん)()れりとせざるより、下々(しもじも)(げん)()()るるもの(なり)(おのれ)れを()れりとすれば、(ひと)(おのれ)れの()()へば(たちま)(いか)るゆえ、賢人(けんじん)君子(くんし)(これ)(たす)けぬなり』


(意訳)昔より、主君と臣下が共に、自分は完全だと思って政治を行うような世に、うまく治まった時代はない。
自分は完全な人間ではないと考えるところからはじめて、下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を言いだすと、すぐ怒るから、賢人や君子というような立派な人は、おごりたかぶっている人に対しては決してこれを補佐しないのである。

 

敵、見方、善悪を超えて許す心『慈愛の精神』


 ところで皆さんはこの東京(江戸)が幕末に戦火で火の海になり何万人の人々が死ぬことなく、助かったのをご存知でしょうか。有名な西郷隆盛と勝海舟の会談で西郷の一言「いろいろ難しい事もありましょうが、私が一身にかけて、お引受けします」その一言で助かったと晩年、勝海舟が「氷川清話」で語っております。


明治元年3月、西郷隆盛と勝海舟が会見した。

官軍が品川まで押し寄せてきて、今にも江戸城に押し寄せようとした際に、西郷は俺の出したわずか一通の手紙で芝・田町の薩摩屋敷まで、のこのこやって来るとは今の人では出来ない事だ。当日俺は、羽織袴で馬に乗り、従者一人を連れて薩摩屋敷に出かけた。西郷は庭の方から平気な顔をして出てきて『これは実に遅刻をしまして失礼』と挨拶をしながら座敷に通った。そのようすは少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった。さて、いよいよ談判に入ると、西郷は俺のいう事をいちいち信用をしてくれて、その間一点の疑念も挟まなかった。


 『いろいろ、難しい議論もありましょうが、私が一身にかけて、お引受けします』西郷のこの一言で、江戸百万の人々の生命と財産とを保つことができ、徳川氏も滅亡を免れた。若し、これが他の人だったら、いろいろうるさく攻め立てるに違いない、そうなると談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない、その達観をして、しかも果断に富んでいたのには俺も感心したよ。このとき俺が特に感心したのは、西郷が俺に対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、終始座を正して手を膝にのせ、戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が少しも見えなかったことだ。               (氷川清話)

 

『京都会議』徳川慶喜処分に付いて

西郷は之から駿府へ向かい、一応総督宮殿下に報告申し上げ、更に参謀会議の結果、京都へ急行する。

西郷が江戸から急に帰ってきて、徳川慶喜の処分を決めるのだというので、太政官の一室に集ったのが、三条実美、岩倉具視、大久保利通、広沢兵介、木戸孝允の五人、それに西郷が加わって合計六人である。

 広沢や木戸のような、長州出身で徳川に恨みのあるものは、勿論極刑を以って慶喜を処分しようという、然るに、西郷はあくまでも寛大に処分しようと主張したものだから噛み合わない。とくに、広沢は『徳川一五代の間、朝廷に対して不臣の限りを尽くし、なお、嘉永、安政以後、幾たびか偉勅の挙に出たるは如何なる弁解もできず、そして、鳥羽、伏見の戦いにいたってはまさに之朝敵の所為、とても許すべきところではない。今日に至って恭順を装って江戸城を明け渡すと言っても、もはや逃れる道なきなり、止むを得ずであり、誠心誠意の恭順ではないのである、滔々として慶喜極刑の議論を述べる。木戸もそのことに付いて非常に過激な意見を述べる。関が原以来、250年、毛利家を敵視された、多年の恨み忘れられるものではない、慶喜を極刑にせよと譲らない。西郷は全く二人と立場を異にして、倒幕の目的は事実に於いて遂げたのだから、この上、徳川家を追及する必要はない。


 
西郷『徳川の大罪は既に定まって居るのだ、されば将軍職もなげうち江戸城も明け渡すという、この上、慶喜を極刑にしたら、未だ後背の定まっていない諸侯が前途を危ぶんで、天下は益々紛糾を極めるであろう、この際は仁政を施して人心安を安心させるのが第一の策である。倒幕の名義が立たぬでは困るが、今慶喜の罪を軽くしたからとて何も朝廷の威光がなくなる事はない。却って朝廷の恩義の有難さを知ったなら、その方が天下を治めるには好都合であろうと思う、よって慶喜の罪は幾分の情を加えてしかるべきである』西郷の意見に対して、木戸は非常に憤激して西郷に喰ってかかった、岩倉も頻りに極刑論を唱える。

西郷『そいじゃ、おはんらの考える通りにしなはるが良か。おいどん、こいで御免蒙る』席を蹴って憤然と立ち上がった西郷、不快の色が顔に現れている。


 
散々苦心したあげく此処まで漕ぎつけて、今この問題で西郷にすねられてしまえば薩摩と長州の反目が始まる、或いは、これが原因の基なって、大局の上に如何なる影響が来るかも知れない、そこで三条が『まア、西郷さん、そいに短気起しなはらんで、まァ、一度じっくりと相談しはたったら、どうやろうか』立ち上がった西郷の袖を抑えて頻りに引き止める、相手が三条だけに西郷も、まさか、振り切る事もならずにその席に着いた。

三条『岩倉はん、此の儘じゃ相談にならんじゃおまへんか、木戸はんや広沢はんも、そないな強情はらんで、程のよい話になりまへんかな』

それから三条の骨折りで相談は再び開かれたが、如何もしょうがない、西郷にこのように出られたら、一歩譲って西郷の意見を入れる他ないのだ。木戸や広沢も甚だ不快の感はあったが、この瀬戸際に来て薩長の連合が敗れるようになっては、これこそ一大事である。                     (伊藤痴遊)

茲に朝廷、終に西郷隆盛の説に屈して徳川慶喜の生命は継がれたのであります。

                                             

幕末の戦いは官軍側の圧倒的な勝利に終わり、当時最後の将軍慶喜をどのように扱うかが官軍の間で大きな問題となりました。極刑を主張する長州藩士に対し西郷はあくまで勝さんとの約束を守り、慶喜助命に努力をしました。敵、味方お超えた西郷さんの慈愛の精神が最後の将軍慶喜は、77歳まで長生きする事が出来たのです。

 

 

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