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三権分立
憲法41条は、『国会は国権の最高機関であり、唯一の立法機関である』と規定している。この規定から、法律は国会、つまり国会議員によって作られているように思われる。しかし実際には大半の法律案は官僚が作っているのである。国家の権力を区別して、それらを異なった機関に担当させ、相互に牽制させて国民の基本的権利を保障しようとする政治組織の原理で、他の機関が暴走しないよう、政治権力を1ヶ所に集中させず、立法権、行政権、司法権の三権を分け、それらを異なる集団または個人に与えることによって相互に抑制と均衡がはたらき民主主義が実現できることを目的としているが、日本の議院内閣制にあっては、議会の多数党によって内閣が組織されるから必然的結果として、立法府と行政府の間が緊密になる。それゆえ、厳格な三権分立体制の成立は出来ない、事実上「二権分立」となっている。否、最高裁判所の裁判官が時の内閣によって選ばれることから、二権分立もはなはだ難しい状態になっている。
(最高裁は政治に配慮した判決が多く、2001年参議院選の1票の格差、最大5・06倍を多数意見で合憲としている)当然、権力相互の「抑制と均衡の関係」は事実上形骸化している。その結果、政府提出法案は簡単に議会を通過し(強行採決あり)成立することになる。(平成16年6月16
日に閉幕した通常国会では政府提出の120の法律が成立した。一国会での成績としては過去10年で2番目である。年金制度改革法、有事関連法といった従来なら一国会で通りそうもない大物法案も含まれている。)その為に、議会は空洞化を起し、多数与党の横暴を招く事になっている。日本のように長年、政権交代が起きない国では、政権内の腐敗が構造的になり、政治不信が深刻な事態となっている。その意味で総選挙による政権交代が望ましい事である。
参議院選挙
第20回参院選は6月24日公示され、各候補者及び政党は7月11日の投票日まで17日間の選挙戦に突入する。年金制度改革や自衛隊の多国籍軍参加、経済運営などが争点で、小泉純一郎首相にとっては3年余の実績が問われる。公示日を前に主要五政党による党首討論会(日本記者クラブ主催)が21日午後、都内で開かれた。この中で自民党総裁の小泉首相は自らの厚生年金保険料肩代わり問題をめぐって国会の中で、演歌歌手、島倉千代子もどきの「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」と発言した事に「私は素直に発言している。あれでよかった」と述べ、発言を撤回しない考えを強調した。はたして、国会議員になる事が仕事で、留学していてもいい、旅行していてもいい、寝ていてもいい、そのような事業目的の会社が本当にあるのか、あるとしたら商法違反ではないのか。小泉首相の発言は詭弁、欺瞞で実に見苦しいかぎりだ。
議員年金廃止を言いながら結局手をつけず、年金未納議員の公表をしないし、各種世論調査で七‐八割の国民が反対している年金改革法案を強行採決した。
イラクへの多国籍軍に参加することを国内での手続きもなく、サミットの席で勝手に決めてしまった。
これには、小泉首相を支持している人からも批判が続出している。
明治維新の立役者である西郷隆盛は、全ての国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心を慎み、品行を正しくし、おごりや贅沢をいましめ、無駄をはぶき、つつましくする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものであると言っています。
首相が決断すれば何でも出来るのですから、目先の既得権や小事にとらわれることなく、百年先を見据えて国民の立場に立って、『この国を思い、この国を創る』との公約に真剣に取り組んでいただけるよう切に望みたい所存です。
『南洲翁遺訓』21編
道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功はは『毋意、毋必、毋固、毋我』。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れとも、残り二つを終る迄成し得る人の希なるは、始は能く己を慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕はるるなり。功立ち名も顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐櫂戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を屓み、苟も我が事を仕遂んとて、まづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。
(意訳)道というものは、天地自然の道理であるから、学問を究めるには『敬天愛人』を目的とし、自分の修養には己れに克つという事をいつも心がけねばならない。
己れに克つという事の真の目標は論語にある「意なし、必なし、固なし、我なし」我がままをしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない。という事だ。
すべて人間は自分に克つ事によって成功し、自分を愛する事によって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。
事業を始める人が、その事業の7、8割までは大抵良く出来るが、残りの2、3割を終りまで成しとげる人の少いのは、始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功もし、有名にもなる。
ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れ慎むという精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、その成し得た仕事を見て何でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていない時も、聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事な事だ。
維新の立役者
明治維新というものは元より一人の力で出来たものではない。時勢の力であり、何百何千何万の人の力の集合によって出来上がって出来たものである。
しかしその時、西郷隆盛が一人いなかったら、我等の維新に対する感じは余程違っていたように思う。あの肥大漢、目玉の大きな男がいなかったら、維新に対する我等の感じはもっと暗いものになってはいなかったかと思う。
西郷隆盛がいたことで何となく明るい感じを受けるのは僕ばかりではあるまい。隆盛の一生は必ずしも明るいものではない。その最期なぞは明るいはずのものではない。それにもかかわらず、何となく彼のいるところは明るいのだ。それは彼の人物に暗い影が少ないからであり、彼の心がいつも落ち着いて生死を度外視していた点があずかって多いと思う。
彼の言葉や逸話は実に多く伝えられているが、どれも彼と言う一個の人間から現れたもので、他の人には真似の出来ない味がある。維新の時代に彼のような人間いてくれたことは仕合せだったと思う。彼はおよそ小人ではなかった。こせこせしていなかった。陰険なところがなかった。そしてどこまでも東洋人らしい心の持ち主だった。しかも細心でなかったとはいえない。無神経とはおよそ反対の男で人情を良く知っていた。自分は今の時代にも彼のような人物がいる事が必要だと思う。それだけ彼に多く教わる事が多くあるように思う。
(武者小路実篤「西郷隆盛」)
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