西郷隆盛に学ぶ、敬天愛人フォーラム21

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西郷隆盛に学ぶ 『敬天愛人フォーラム21』
西郷隆盛
西郷隆盛と敬天愛人その教えを学ぶ
西郷隆盛を称えた先人

月刊レーダ2005年1月号 労働問題研究会議

−世界に伝えたい『西郷隆盛の精神』−

明治維新の英雄西郷隆盛は「征韓論」者か?



 現在の日本があるのは歴史上の人物のお陰である。その為には正確な歴史を学び、自分の子供達に伝えていく事が大事である。「西郷さん」と親しみ呼ばれる南洲翁は明治維新において中心的役割に身を挺し、廃藩置県、宮中の改革等多くの改革を断行して近代日本の礎を作った。またその生き方が、後世の日本人に国のありさま、政治のあり方、人生の生き方などを含め、問いかけ、示唆してくれている。明治六年の政変で官を辞した時の詩が残っている。

 

一人事情にかなわず

あに笑声談ずるを聞く

恥をそそがんと戦略を論ずれば

義を忘れ和平を昌う

秦檜の貴類多く

武公の再生難し

正邪なして今定めん

後世必ず清を知る。

 


後世必ず清を知る」と残された重みを受け止めて、明治六年政変を検証してみよう。



 「冬ソナ」効果は日韓両国に2300億円


 
長い間、日本と韓国との間では不幸な時代が続きましたが、サッカーのワルドカップ共同開催の成功以来、民間人による文化の交流が盛んになり、韓国内でも日本の大衆文化が開放され日本の漫画や映画なども上映されるようになった。今年日本で大ヒットした韓国ドラマ「冬のソナタ」が日韓両国にもたらす経済効果は約二千三百億円。第一生命経済研究所が十日発表したレポートによると、同ドラマの影響で韓国を訪れた日本人観光客の数や日本におけるDVD(デジタル多用途ディスク)の売り上げが急増し、2004年度だけで日韓両国にそれぞれ千億円を超える効果をもたらすという。尚、韓流ブームで韓国ドラマの放送も相次いでいる。日本では冬のソナタの影響で「冬ソナ」の撮影地を訪問するツアーが40代、50代の女性を中心に人気を呼び、同研究所の試算によると、同ドラマの影響だけで今年四月から十月までの七カ月間で韓国を訪れた日本人観光客の数は約18万7千人増加。生産増加など間接的な効果も含めると年間で約1,070億円のプラス効果が見込まれる。韓国の国内総生産(GDP)を0,1%程度押し上げる規模という。



日韓首脳会議


 
平成16年12月17日、鹿児島県の指宿市で日韓首脳会談が行なわれた。それに先立ち、韓国政界の一部で「鹿児島は首脳会談の場所にふさわしくない」という意見があった。その理由が「征韓論をとなえた西郷隆盛の故郷だ」というのだ。1877年9月24日、西郷隆盛が故郷鹿児島の城山で自決してから127年たった平成の今でも、「征韓論の西郷隆盛」が、歴史の既成事実のように登場して来るが、果たして西郷は本当に征韓論を口にしたのだろうか。征韓論を主張したのか。


「征韓論」明治六年政変

明治政府が発足からわずか、明治六年(1873年)10月、正院参議(現在の内閣に相当)が二派に分裂する事件が起った。西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の五名が辞職。大久保政権が成立という、以後日本の歴史の大きな流れを決める事件となった。その政変は「征韓論」紛争ともいわれ、武力で朝鮮問題を解決しようとした西郷隆盛と、これに反対した大久保利通との対立と長年いわれ、現在の歴史教科書でもそのように教えている。しかし、西郷が公式の場で征韓論を主張した記録は一切ない。むしろ西郷は「自らが全権大使として非武装で朝鮮を訪問して、話し合いでもって両国の問題を解決する」と論じており、現在の歴史教育で教えている「征韓論」とは異なるものであった。


なのに、なぜ西郷は「征韓論者」にされているのか? されてしまったのか?

朝鮮国が大韓帝国に国名を変更したのは一八九七年であり、それ以前を「韓」と呼ぶのは不正確ではなかろうか。それならば、朝鮮が大韓帝国に国名を変更後の日本の政治家や歴史編纂家などにより、韓国を日本の植民地にし、併合したことによる韓国人の日本人に対する怒りや批判をかわす為、また明治六年の政変を正当化する為に西郷が「征韓論」を唱えたとする、責任転換のプロパカンダではなかったのではないのか。

明治六年に西郷さんが希望通り朝鮮に派遣されたなら「敬天愛人」の西郷さんと「儒教の国」の王様が意気投合することは間違いなかったであろう。後の大久保利通、伊藤博文の政府が行った植民地、併合といったことは無く、日清戦争も回避できたのではと思うと残念でならない。


「朝鮮討つべし」

徳川幕府時代、釜山に草梁倭館という対馬藩が貿易出先機関があった。維新後、明治政府はここを「大日本公館」と改称し、外務省の管轄に移したが、維新政府を認めない朝鮮側は、明治六年(一八七三年)五月、日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない、日本は無法の国である倭館への出入りを禁ずるとの張り紙をした。このことを、大日本公館外務省七等出仕、広津弘信は外務省上野景輔あてに手紙で伝えて来た。そのころ、外務卿副島種臣は、全権大使として中国に出張中であり、上野少輔が外務省の責任者であった。上野は、広津報告書の内容を重大事と見て、太政大臣三条実実に太政官(正院)審議を求めた。之が明治六年政変の発端であった。このままでは日本人に危害が加わるとのことで「朝鮮討つべし」の空気が強まった。

 閣議の原案は、朝鮮側官憲が「我を目して無法の国とし、また我を目して妄錯生事後悔あらためさせよ」などと掲示したので、「自然不慮の暴挙に及び、我が人民如何ようの凌辱を受けるや計りがたく勢いにあり」このままでは「第一朝威に関し、国辱に係わる」などの深刻な事態であるから、武力解決を決断しなければならないであろうが「兵事は重大の儀」であるから、とりあえず、慰留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、軍事力を背景に「公理公道を以て、談判に及ぶべし」である、との方針であった。正院のメンバーは、三条太政大臣と、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、大隈重信の各参議である。まず板垣退助、江藤新平をはじめ「すぐに朝鮮に兵を送るべきだ」との声が大きくなった。これに対し、筆頭参議の西郷隆盛はまず使節を派遣して公理公道をもって談判するべきである。これまで朝鮮に派遣されたのは大丞以下の外務省官吏だったから話が進まなかったと思われるので、今度は全権を委ねられた大官を派遣せよ、と論じた。そこで、三条が派遣するとしたら護衛兵を率いて軍艦に搭乗して行くべきだと発言した。ところが西郷は之にも反対した。使節は「烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)」つまり正装し出なくてはならないと主張し、さらに、その使節に西郷自らこの任務に当たりたいと主張した。


 しかし、ことは重大なうえ、外交の責任者副島外務卿は清国に出張中であり、また政府の主柱である筆頭参議西郷の朝鮮派遣に三条が躊躇したので、閣議は結論を保留した。七月二十四日副島が帰国。西郷は七月二十九日付で板垣宛に手紙をかいた。さて朝鮮の一件副島氏も帰国相成り候て・・・・何卒私を御遣わし下され候、伏してねがい奉り候。副島君の如き立派な使節はできないけれども、死するくらいの事は相調い申すべきかと存知奉り候間。板垣に朝鮮使節にと自分を支持してくれるよう書いたこの手紙が後の征韓論者とされる所以といわれている。


 朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、朝鮮政府首脳と直接会見して話をまとめ、明治年初以来の国家的懸案を一気に解決したいと願い、またその自信もあったのではないだろうか。西郷の努力の結果、三条は8月17日閣議を召集し、そこで西郷を朝鮮派遣使節に任命する件が議決された。三条は翌々日十九日西郷は件の決定を箱根宮下行在所に避暑中の天皇に上奏した。天皇は了承したが、その件は遣欧使節団の岩倉具視の帰りを待って熟議しさらに奏聞すべしと付け加えたという。


10月14日閣議開催、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、参議西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、大久保利通、副島種臣の十名であった。

西郷は朝鮮への派遣が急務であると論じ、8月17日閣議決定の再確認を求めた。これに対し、岩倉が樺太における在住日露両国人間の紛争解決を優先させよと反論した。また大久保は使節派遣が戦争になると財政上・内政上の混乱をもたらすと理由で派遣を延期すべしと主張した。これに対し、江藤が反論、樺太と朝鮮の問題は次元を異にすり問題である。すなわち、樺太の問題は民と民の問題であり、朝鮮の問題は国家間の関係である、ゆえに朝鮮使節延期は理由にならない。次に、江藤は、朝鮮は野蛮に付き、使節(西郷)を殺すであろうからと本当に信じているならそれだけでも、先方の日本国に対する害意明白であろうから、立派な開戦理由になる。閣議で決まった使節派遣を延期してまで戦争準備しなければならないほどの異常な事態は、すでに開戦理由が存在する。開戦理由が存在すれば交渉の余地はないはずと鋭く突く。

 翌10月15日、の閣議には西郷は主張すべきは主張したとして、閣議には出席せず、代わりにこれまでの経過をまとめた「始末書」を太政大臣宛に提出した。西郷は朝鮮を信頼すべきであると説き、身を挺して国家の懸案解決にあたるとの意向を表明したのに対して、大久保は朝鮮問題の解決策を提示しなかった。ただ一人反対を唱えた大久保も、決定には依存を申し上げなかった。結果的には、大久保を含む満場一致で西郷派遣を閣議決定した。8月17日の閣議決定は正式に再確認され、西郷派遣は本決まりとなった。大久保がルールに従い公正かつ冷静な態度を持したならば、当面、政局に波乱は生じなかった。ところが、そうではなかった。大久保は参議を辞任してしまった。


大久保利通辞任

 西郷の道義的な主張の前に、年来の同士であり心を許した親友西郷と対立することになり、耐え難い屈辱だったのだろう。17日早朝、大久保は三条邸を訪問し、参議辞任、階位返上を申し出た。大久保の予想外の強行態度を見て岩倉もあわてた。大久保と長い付き合いの岩倉は「三条の方針にはついていけない」と辞意を表明した。同じ17日、太政官に登庁した西郷らは、三条に、所定の手続きにしたがって施設派遣の閣議決定を天皇に上奏するように求めた。それは、太政大臣として当然の職務であった。ところが上奏に一日の猶予を請い、岩倉を訪ねると、岩倉の返事は冷やかだ。小心な三条はとうとう高熱を発して卒倒、職務遂行不能になった。三条の病気で事態が意外な方向に展開することになった。


一の秘策あり
 閣議が西郷派遣を正式に決定し、大久保が辞任、岩倉も辞任したが、稀代の策士、伊藤博文は、直ちに次の策略に取りかかった。18日、伊藤は木戸と相談して、岩倉を説得、大久保にも働きかけたが「熟慮」したいと、気乗り薄の返事をした。ところが大久保は独自に同郷の腹心、黒田清隆に「一の秘策」伊藤と同じ相談をする。黒田はやはり同郷で宮内省の高官吉井友実に相談する。大久保は辞任したばかりでありながら三条が病気、岩倉も辞任とわかると、本来の強力な権力志向が蘇って岩倉と関係修復、吉井を通しての宮廷工作は功を奏し、翌20日、岩倉に太政大臣代理に就任するよう勅命が下された。岩倉が太政大臣に任命されると、22日、西郷、板垣、江藤、副島の四参議が岩倉邸を訪れ「太政官職制」の規定どおりに15日の閣議決定を天皇に上奏する手続きをとるように求めた。当時の「太政官職制」には、参議によって構成される内閣が案件を議決すれば、大臣は即日「ツ印」して天皇の裁可を受け、交付の手続きをとらねばならないと規定されていた。これに照らせば、西郷派遣の件は、反対派の大久保をも含めて満場一致で議決されたわけだから、15日中にも天皇に上奏されていなければならなかった。しかるに、三条病気というハプニングがあったにせよ1週間も手続きが放置されたのは、三条、岩倉の大変な職務上の怠慢である。最後裏の督促は「太政官職制」から見ても当然である。

岩倉宛大久保の手紙に、我々が開いた政権に、「難を生じ」他人の手に握れられようとしている、これを放っておけるか、と叱咤激励の文書がある。王政復古クーデターの当事者だった岩倉と大久保には、自分たちこそが明治国家を生み出したという特別な感情と自負心があったようだ。俺が作った政権を遅れてきた輩におめおめ渡してなるものかという執念だけだったようだ。もはや、大久保には朝鮮使節の是非など枝葉の問題で、大久保が政敵とみなしたのは「ことに副島、板垣断然決定の趣にて」と日記に書きとめた両人であり、江藤新平だったであろう。


西郷隆盛辞任

 そこで、大久保に激励された岩倉は、頭から四参議の適法な要請を断り、三条と自分は別人だから自分の思い通りにする。すなわち閣議決定に拘束されないと言い張った。その無法に驚いた江藤は、代理(岩倉)は原任者(三条)の意思にしたがって事を運ぶべきであることを法理的に説明したが、岩倉は頑として聞かなかった。
 
 
岩倉はただ必死で、彼の念頭には、「閣議決定」の重みも「太政官職制」を守る必要性もなくなっていたように思われる。この岩倉の露骨な違法かつ越権の意図に接して、西郷は抗議辞職を決意したのであった。確かに、岩倉の言う通り参議たるもの、違法行為をしてでも閣議決定を否認すつもりだと白昼堂々宣言されれば抗議辞職するか、天皇に直訴するよりほかはなかったであろう。

 このとき「一の秘策」の片棒を担いだ黒田清隆は、大久保に手紙を送り「今日に立ち至り、退いてとくと我が心事追懐つかまつり候に、大いに西郷君に恥じ入る次第、・・・・西郷君とはかねて死は一緒と、また従来恩義もあり、我が心を向かえば面目も泣く、やむを得ざるの策と申しながら、如何にして同氏へ謝し候様恐れ入るのみにて・・・」と、西郷を罠に陥れたことに良心の呵責を感じる旨の悲痛な反省を告白した。黒田の証言では、西郷は「やむを得ざるの策」の巻き添えを食らわされたようである。そうであれば、大久保の真の狙いは、世に伝えられているような征韓論阻止云々ではなく、ほかにあったということになる。大久保が西郷を巻き添えにしてまでも反対派を政府から追放しようと決意していたのは、いまや明白であろう。さすがに黒田は躊躇したが大久保は手を緩めなかった。翌23日、天皇に直訴もせずに「胸中の煩いこれあり、とても奉職まかりあり候儀相叶わず」とひとり辞表を提出し、東京郊外に身を隠した。

西郷の辞表提出を知ると、大久保は、黒田に書簡を送り「辞表は今日西郷一人差し出し相成りたるゆえ御座候、実に意外」と、反対派全員の退陣を期待していたようだ。


西郷隆盛は「征韓論」にあらず

1、西郷隆盛は、明治六年夏秋には征韓即行を期していなかった。西郷は、最悪の事には「使節暴殺」開戦の可能性を覚悟したにせよ、あくまで交渉による朝鮮国との修交を求めたのであって、そのために使節就任を切望したと推理するのが、諸資料から判断してもっとも合理的であろう。また、西郷を士族利害の代弁者とみなし、したがって征韓を必要とした云々という仮説も根拠が薄弱であり、むしろ西郷は士族の特権解消に熱心だったと論証できる。要するに、通説は、西郷の立場からは不成立であろう

 2、大久保利通は、政変直前まで西郷を使節として朝鮮に派遣することに必ずも反対でなかったと推測できる。にもかかわらず大久保が西郷使節延期論に主役を演じたのは、主として、三条実美、岩倉具視の懇請に余儀なくされたからであろう。その無理が閣議における大久保の孤立をまねき、その反動が「一の秘策」による反対派追放クーデターとなって爆発したのだろう。そして、相手が合法性を尊重したので、岩倉、大久保の無法がまかり通った。無理が通って道理が引っ込んだのである。そして、もはやそのときには、朝鮮問題は主要な争点ではなくなっていた。さらに、大久保がこのような行動に出た背景には、留守政府に対する反感があり、さらに岩倉使節団失敗の自覚と自己の政治生命の前途への不安もあったに違いないこと等々は、諸資料から推理可能である。大久保もの場合もまた、通説は成立不能といわざるを得ない。


3、木戸孝允や伊藤博文ら長州派は、これまた西郷施設派遣自体には必ずしも反対ではなかった。政変の直前に、伊藤は、岩倉を経由して薩摩派の黒田清隆との間で西郷を見方に引き込む可能性を相談した事実さえある。山城屋和助事件、三谷三九郎事件、尾去沢銅山事件、小野組転籍事件等々、汚職、不祥事件を続発させたかれら長州派は、江藤新平と司法省の追求を受けて境地に陥り、江藤=司法省打倒を切実な課題とした。換言すれば、江藤の法治主義ならびに人権確立への熱意と努力、およびそれえの反作用が政変を醸成する重大な要素だったことを見落とせないであろう。そして、伊藤が奔走する過程で、朝鮮使節問題が当面の闘争手段または口実として浮上し、岩倉と大久保の働きによって、かれら長州派の予想以上に事がうまく運んだのだろう。とにかく、長州汚職閥は結果的に政変から大きな利益を引き出したのである。
4、  朝鮮への施設派遣が戦争になると、最後まで本気に悩んだのはあるいは三条実だけだったかもしれない。西郷の説得のテクニックを真に受けたうえに、伊藤の先導にうまく乗せられたのであろう。三条のような小心凡庸な人物が政府の最高位の太政大臣を占めていたことが、政局混乱のそもそもの原因だったとも言えるかもしれない。彼の場合、やることなすことが次々に裏目に出てしまったようである。          

「明治六年政変」毛利俊彦

 

敬天愛人フォーラム21
代表世話役 内 弘志

 

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