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世に多く見うける銅像や記念碑などは、誰でも知友や門下生などが建立しようと思えば、いつでも建てることができますが、わが日本民族特有の名誉ある神として祭るということは、一般国民が心から敬慕し、納得して尊敬して信仰するに足りるものがなければ、できないのであります。
しかしならば、松陰先生と南洲翁、乃木大将と東郷元帥に共通して、他の名将賢臣よりも一段と優れており、一般国民が納得し、敬慕信仰して神と祭るに至った者は難であろうか、こう考えると、何よりもまず日本民族の伝統の特質である「無私無欲、険素な生活」に徹して国家民生の為に一身を捧げたことではありますまいか?松陰先生が・・かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂と詠まれ。南洲翁が・・命いらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。といわれたように、全く私利私欲を棄てきってしまって道に立ち、一身を国家国民の為に捧げ、その職分を全うした「まごころ」「まこと」の精神に徹した点にありますまいか?。
乃木将軍は松陰先生の流れをくみ、東郷元帥は南洲翁の教えを受け、たしかに南洲、松蔭、乃木、東郷は同じ道にたち、私心を去り、真に日本国の忠臣として一身を捧げ、「目に見えぬ神の心に通づる人の心の誠」の持ち主であります。ただ、万物創造の神と申すか、この世の総てのものを生みたまい、育てたもう育て心通づる日本民族の親心に到っては、南洲翁に多くこれを見ることができ、それだけ南洲翁が一歩も二歩も抜きんでていると考えるべきではありますまいか?。 龍野定一「日本の心」より
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