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 西郷隆盛生誕祭(195歳)

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敬天愛人の教え
 

 道は天地自然のものにして、人はこれを

行うものなれば、天を敬(けい)するを目的とす。

 天を敬(うやま)い人を愛し、天を識(し)り己を尽くして、

人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

 即ち天とは宇宙を含め、天地自然の道であり、

人の道でもある。
 

 故に天地自然を敬うは天意である。

天は人も我も、同一に愛し給うゆえ、

我を愛する心を以て人を愛するなり。

 この道は総てに通じ、幾多の辛酸を歴て、
近代日本の礎に身を挺した、西郷隆盛の教えである。

 

 西郷隆盛に学ぶ

「敬天愛人フォーラム21」

西郷隆盛を称える辞(ことば)

上野公園銅像の碑文

 

西郷隆盛君の偉功は、人の耳目に在れば、須らく復、賛述すべし。

前年勅により、特に正三位を追贈さる。

 

天恩、優渥に、衆、感激せざる莫し。故、吉井友實、同志と共に謀り、銅像を鋳して、以て追慕の情を表す。

朝旨ありて、金を賜り費に佽(し)し、資に捐(えん)ず。

 

此の擧に賛ずる者、二万五千余人。明治二十六年に起工し、三十年に至

りて終る。

 

乃ち、之を上野山王台に建て、

事の由を記し、以て後に伝ふ。』
 

魅力あふれる西郷さん
 

1 西郷さんは人並み外れて眼が大きく黒ダイヤのように輝き、慈愛とうるおいが     漂っていた。体が大きく横綱級の肥大さがあり、英雄としての風格を自然に備えていた。身長1.8メートル  体重 119キロ

 

1 至誠一環の人で精神誠意をもって事に当たり、小利口な策を弄せず、相手を信頼   して上下の区別をしない、「敬天愛人」の精神で公明正大であった。

 

1 命も金もいらない人、天下の大将になろうとも、下野して百姓の姿になろうとも、無私無欲、淡白高潔で児孫のために美田を買わずの精神が徹底していた。

 

1 威張らず、飾らず、純真にして素朴な人々との生活を喜び、自然で親しみやすい庶民的な人であった。

 

1 物事を熟慮し、引き受けた以上はあくまでも真義をもって貫き通す人。自分を犠牲にしても生死を共にする人であった。

 

1 あせらず慌てず、人を咎めず、長としての徳望が自然に備わり、万人に敬愛される人であった。

 

1 波乱曲折を極めた生涯ながら、あらゆる困苦に耐えて、自分に克ち、随所に適応して道を求め、心の修行をもって生涯を貫いた人。

 

1 理に合わない権力者に対する抵抗の精神強く、決断力が強く、政治道義の革新に勇気を持ってあたり、私心をはさまず、社会大衆に基づく新しい社会建設を目指した人。

 

1 高尚にして、世俗的欲望を脱し、清明心境を求め、天地自然に親しみ、読書、試作、書道、遊猟などに徹し、風格の高い人であった。

 

1 気宇壮大、積極進取の哲人にして、高慢な見識により、薩摩国家から日本国家へ、さらに東亜国家への理想を掲げ、平和的地球国家の建設への雄大な哲理に徹せられた人。

 

1 西郷さんという人は奥の深い、まだまだわからない不思議な人であった。

 

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大田区千束池にある石碑

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獄中感有り(西郷南洲翁作)

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 朝に 恩遇を蒙り 夕べに焚坑せらる。

人世の浮沈 晦(かい)明に似たり

縦(たと)い光をめぐらさざるも 葵は日に向かう

若(も)し運を開くなきも 意は誠を推す。

 洛陽の知己 皆鬼となり 

南與の俘囚 独り生を盗む。

 生死 何ぞ疑わん 天の付与なるを、

願わくは 魂魄を留めて 皇城を護らん。

 

    文久二年(1862年)沖永良部島流謫中の作

 

​        西郷さんの牢屋             やせ細った西郷さん







 

                      

                           福沢諭吉

 

 福沢は、西南戦争の原因が政府の自由弾圧にあるとして、私学校党が暴発したというだけで、これを国賊として討伐する理由はないと考えた。彼はこの戦争を西郷派と大久保派の私闘と見て、喧嘩両成敗的処置をすべしという意見を持ち、早急に休戦して裁判にかけるべきだと決意し、休戦建白書を自書した。

 

 西郷が在官2年の間に、人権平等思想に基づく平等公平な社会を実現したことは、まさに日本を維新の本道にのせた大改革である。しかしこれを功績と呼ぶことは、天皇制を濫用しはじめた大久保政府の、官僚制独裁ともいえる官尊民卑野政治を否定することにもなる。

 そのため、同時代の開明派の人々は、この西郷の功績を公表できずにいた。福沢という言論界の長老が、西郷を「人権平等主義者」として尊敬した事さえも、明治25年前まで表に出ることはなかったのである。

 

 

福沢の建白書

「西郷は真に朝廷の忠臣にして、朝廷のなある政府に向かってもとより暴発することあたわづ、またその暴発の世に害たることも知り、百方尽力して部下の少年輩を維持したるは政府の人も明らかに知るところなり。

 

 あるいはこれを維持してその方向を改めしむる術に至っては、学識明ならず、知見博からずして、策の得ざるものもあらんといえども、西郷に固有の力はこれを尽くして遺すところあることなし、かくのごとく忍耐勉強して、一年を過ぎ二年を経て、世上の有様を視察するに、一として部下の不平を慰(なぐさ)むるに足るものなし。政治はますます中央集権、地方の事務は日比に煩冗(はんじょ)、これも政府の布告、彼も地方官の指図とて、有志の士民あたかもその心身の働きを伸ぶるに地位を見ず。

 

 その鬱積(うっせき)ついに破裂して私学校の暴徒なり、西郷も実に進退これきわまる場合に陥り、やむを得ずしてついに熊本県に乱入の挙に及びたりと。この説あるいは然らん。然らばすなわち彼の心事は真に憐れむべくして、これを死地に陥れたるものは政府なりと云わざるを得ず。」

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西郷の死は憐れむべし
 

 「西郷の死は憐れむべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと。なおこれよりも甚だしきものはあり。すべて国事の犯罪は、その事を憎みてその人を憎むべきにあらざれば、往々これを許して妨げなくもの多し。
 

 なお維新の際に榎本武揚を放免して今日に害なくかえって益するところ大なるがごとし。しかるに維新後、佐賀の乱の時には断じて江藤新平を殺してこれお疑わず、しかしのみならず、この犯罪の巨魁を捕まえてさらに公然たる裁判もなくその場所において刑に処したるは、これを刑と云うべからず、その実は戦場に打ち取りたるもののごとし、丁重なる政府の体裁において大なる欠典と云うべし。

 ひとたび過ちを改むればなお可なり。しかるを政府は三年を経て前原の処刑においても、その非を遂げて過ちを二にせり。ゆえに今回城山に籠りたる西郷も、乱丸の下に死して快とせざるはもとより論を俟たず。たとい生を得ざるはその覚悟にても、生前にその平日の素志を述べるべきの路あれば、必ずこの路を求めて尋常に縛に就くこともあるべきはずなれども、江藤・前原の前轍を見て死を決したるや必なり。しかならば即ち政府は、ただ彼を死地に陥れたのみにあらず、またしたがって彼をころしたるものと云うべし。

 

 余は西郷氏に一面識の交わりもなく、またその人を庇護せんと欲するにもあらざるといえども、特に数日の労を費やして一冊子をきしてこれを公論と名付けたるは、人のために私するにあらず、一国の公平を保護せんがためなり。方今、出版の条例ありて、少しく人の妨げをなす。

​ ゆえに深くこれを家に納めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、もって日本国民抵抗の精神を保存して、この気脈を断つことなからしめんと欲するの徴意のみ。ただし西郷氏が事を挙げたるにつき、その前後の記事及び戦争の雑録等は、世上すでに出版の事もあり、今後出版も多かるべし、よってこれを本篇に略す。

 

西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳といえども、あに一人を容れるに余地なからんや。日本は一日の日本にあらず、国法は万代の国法にあらず、他日この人物を用うるの時あるべきなり。これまた惜しむべし。」

 

明治10年10月24日  福沢諭吉 記

西郷隆盛から左宗棠(さそうとう)将軍に書簡





 

欽差大臣 左宗棠                            西郷隆盛

 

欽差(きんさ)大臣=清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。

 

・1875年 左宗棠(1回目):ヤクブ・ベクの乱により清朝の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当

・1885年 左宗棠(2回目):清仏戦争終結のためにフランスと講和交渉を担当

・1895年 李鴻章日清戦争の講和交渉を担当(下関条約を締結)

 

 西郷隆盛は左宗棠将軍に以下のような書簡を送ったと言われている。

「日本は今士族50万人がいて、彼らは数百年間養われたところの国家の干城である。明治初年の兵制改革によっていまや無用の存在となろうとしているが、これを田園に逼塞(ひっそく)せしめて、用武のないことを遺憾に思っている。

 貴下は幸いに聡明を以てこの議を採用し、ロシアの東進を防ぐことを得て、長く両国が提携して同盟の実をあげることができれば、太平を万世に開きえるのではなかろうか」。

 

西郷隆盛は朝鮮、清国に派遣した池上四郎、別府晋介などの動きで、清国の将軍も日本と協力しそうな話が出ていた。また、外務卿の副島種臣も清国と交渉して、清国からも尊敬されていた。
​ 1873年、西郷隆盛は清国、朝鮮と連携してロシアに対抗しようとしたと考えられる。その証拠として、池上四郎を通して欽差大臣の左宗棠に連絡をつけていた。

 

また、池上四郎の言うように、左宗棠と日清同盟をめざしていたなら、その後の100年の東アジアが変わっていたのである。日清戦争、日中戦争が起こらなかったのであるから。

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