西郷留守内閣の実績
明治4年~6年の日本の政治
岩倉使節団とは、明治4(1871)年11月12日から明治6(1873)年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
西郷留守内閣
同年11月に欧米使節団を送り出すと、西郷隆盛を首班とする留守内閣は、身分制度を、華族、士族、卒、平民とし、全員が姓名を名乗ることが出来るようにした。しかもこの四民は平等である。人身売買の禁止も布告した。武士、農民、職人、商人といった区分けも取っ払い、藩主と家来、百姓の関係もなくした。職業の自由、教育の義務化、未開の大地であった北海道への移住も可能にした。現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。
この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官に付いた。勝海舟(海軍大輔(たいふ))大久保一(いち)翁(おう)(東京府知事)山岡鉄舟(宮内侍従)大鳥圭介(大蔵小丞)等である。
戊辰戦争の恭順派であった勝・大久保・山岡はともかく、最後まで抵抗した箱館戦争の責任者の榎本武揚などは、長州派からは殺してしまえとの号令もあったが、西郷の一諾で死刑を免れた。なお長州派の猛烈な反対を排して、西郷は恩讐を超えて榎本らに活躍の場を与えた。
この時代、旧幕臣も初めて自由にものが言えるようになり、鬱積した空気も次第にほぐれ、自由、改進の風潮が社会の傾向として、人々に浸透していたという。(福澤諭吉・時事大勢論より)新聞・雑誌も相次いで創刊された。明治4年から5年にかけて創刊された新聞には、「日新真事誌」「新聞雑誌」「東京日日新聞」「郵便報知新聞」などがあり、地方では「大阪新聞」「京都新聞」「山梨日日新聞」「茨城新聞」「信飛新聞」「開花新聞」などがあった。
以上のように、西郷留守内閣は、明らかに民主的・進歩的であった。その根底には国家社会は道義・仁愛をもって成立すべしとする西郷隆盛の理念があった。西郷隆盛が一切の発想者ではないにしても、実に、明治維新政府の基礎的眼目たる諸制度と、新政策のため、大いなる推進の主役であったことは否めない。

明治4年の太政官制度改革
官吏は月給制に、神祇官が廃され三院制に
明治4(1871)年の改革では、正院・左院・右院を配する三院制が導入されるが、それぞれの院は異なる役割を果たすことになる。正院には太政大臣、左大臣、右大臣、参議が置かれ、天皇陛下の下に政務が執られる。
また左院は暫定的な立法府としての役割を果たし、右院では各省のトップが事務について審議することになるという。

宮中の改革
西郷は常々、天皇とは如何にあるべきものかを考えていた。天皇を雲の上に祭り上げてはいけない。君民の間にわだかまりがあってはいけない、まず天皇のお側に優秀な人材をつけなければいけない。
また、この機会に大奥の改革にも手をかけ、明治4年8月1日をもって、従来の女官を全て免職し、改めて品性や心根の優しい者を専任した。
そこで、門地・門閥に問われず、むしろ草莽の中から、人間的に魅力に富んだ清廉で剛直の士を選んで、これを侍従に推薦することにした。
長官である宮内卿は正四位下相当であるが、
従三位以上の公卿が任命されることも多かった。大輔以下の職員構成以下のとおり
註:大輔・少輔には後に権官も設置された。
宮内少輔 吉井友実(薩摩)
宮内大丞 村田新八(薩摩)
宮内権大丞 世古延世
侍従長 東久世通禱
侍従 米田虎雄(肥後)
侍従 山岡鉄舟(幕臣)
侍従 島義勇(備前)
侍従 高島鞆之助(薩摩)
宮内少輔の吉井友実は、この改革を喜んで、その日記に「数百年来の女権、ただ一日に打ち消し、愉快かぎりなし。いよいよ皇運隆興の時節到来かと、秘かに恐悦に堪へざるなり」と記している。
数百年来続いた女官支配(老中さえも口出しできない程の権力を持っていたとされる大奥)の宮廷から、華族、女官を締め出し、明治天皇が明治維新の功労者及び清廉な士族に護られて、名君となられるよう願った西郷の英断だった。
それは国家権威の中核を、表舞台に引きずりだすことになる。
陸軍創設
大政奉還のもと新政府は天皇親政を目指して権力の基盤たる兵権の掌握を図った。しかし、統一された軍備を整えるには資金や人材そして時間が足りなかった。そのため当初は長州藩・薩摩藩などの諸藩の兵で間に合わせながら、以下の設立を急いだ。
· 海・陸軍省
· 海・陸兵学寮
· 陸軍屯所(兵営)
· 銃砲火薬製造所
· 軍医病院
明治2年6月17日(新暦1869年7月25日)に版籍奉還がなされたが、依然として各藩の勢力は侮りがたく、新政府はこれらに対抗し統制するため、天皇直隷の軍隊を持つことを必要としていた。
明治3年2月、各藩の常備定員が定められ、11月13日には徴兵規則が制定された。12月には常備兵編制法が設けられ、各藩の兵制規格の統一を図った。明治4年2月13日に薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵約6,000名からなる御親兵が組織され、4月には東北地方に東山道鎮台(本営石巻)、九州に西海道鎮台(本営小倉)の2箇所に鎮台を置く事となった。
明治3年8月に欧米の軍事視察を終えた山県有朋、西郷従道らが帰国し、兵部省入りした後の同年10月には藩ごとにばらばらであった兵式をフランス陸軍式に統一し、改革を推し進めた。
この御親兵と鎮台の常備兵力を背景に新政府は明治4年7月14日、廃藩置県を断行し8月には懸案であった各藩の士族兵を解散させ、そのうちの志願者を(これを壮兵という)東京・大阪・鎮西・東北の4か所に新設される鎮台の員数に割り当てた。その後に兵部省内に陸軍部と海軍部が設けられ、兵制が大きく変化し新体制が整えられた。この明治4年はまさに近代日本陸軍の始まりの年といえる。
明治5年11月には徴兵告諭の発表で兵役区分が明文化され、明治6年1月には徴兵令が発布された。明治5(1872)年2月に兵部省が廃止され、陸海軍中央機関が陸軍省と海軍省に分離された。この時を持って、公用語呼称として海陸軍は陸海軍、御親兵は近衛兵と改められ、さらに近衛局が置かれ、近衛都督は天皇直隷となった。
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警察制度の創設
明治5年2月18日、西郷隆盛が東京府大参事、黒田清綱に与えた書簡の中に「ポリス」「ポリス制度」という文字が出てくる。欧米のポリス制度を言語に用いてこの制度が創設された。治安の維持が目的である。
最初ポリス3,000人のうち、2,000人を鹿児島から募り、1,000人を他の各府県位から募った。鹿児島の2,000人は、県の事情で郷士から募った。城下士は軍隊に採用し、郷士をポリスに採用してバランスをとったのが西郷であった。
尚、昔から鹿児島では「オイ、オイ、コラ、コラ」は親しい者の間で呼び合う言葉である。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒(らそつ)も同省へ移管された。
薩摩藩出身の川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議した。司法省警保寮は内務省に移され、1874年に首都警察としての東京警視庁が設立された。
国民皆兵の制度
廃藩置県によって、士族の特権は剥奪され、軍国の義務は国民全体が負うことになった。このさい、募兵・傭兵の制とするか、徴兵制にするかは、一大問題であった。そのころ政府の首領、有力者たちは、たいてい徴兵反対であった。参議の板垣退助は、四民平等論の主唱者ではあったが、徴兵制によって大兵を養うよりも、少数精鋭の傭兵の方が善美であると思っていた。兵部大丞(ひょうぶだいじょう)の山田顕義(長州藩)などは、徴兵制反対の急先鋒であった。薩摩の島津久光は、廃藩置県さえも反対であったのだから、徴兵制などとんでもない。隆盛傘下の桐野利明、篠原国幹なども、徴兵制を喜ばなかった。
かつて、大村益次郎(兵部(へいぶ)大輔(たいふ)(ひょうぶだいふ))が暗殺されたのも、彼が徴兵制の創設を考えていたからだ。よって、徴兵制を推進しようとすれば、大村の二の舞を覚悟しなければならない。だから、よほどの名望と胆力がなければ、この問題に取り込むわけにはいかなかった。
したがって、一君万民、四民平等を維新の理想とするならば、国民全体の中から勇健壮齢の男子を選び、これに国を護る栄誉と責任を与えることは、この理想にふさわしい制度である。兵役の義務は3年とし、あとは在郷軍人とすれば、平時における常備兵は少なくて済むのである。そこで西郷は大村の後を受けた山縣有朋(兵部大輔)を盛り立てて、弟の従道(兵部少輔(しょうゆう))にこれを助けさせ、徴兵制度を採用した。全国民を対象とした普遍的な徴兵制度になったのは、西郷が指導しバックアップした結果である。
学 制 公 布
すべての国民に学問を!
明治5(1872)年8月3日、明治政府はすべての国民が教育を受けることができるよう、学制を公布した。これにより、全国に大、中、小学校が建設される。公布文によれば「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」とされており、日本国民は身分男女の別なく、学問を学ぶことができるようになる。
フランス式の学制を参考にして、全国を八つの大学区に区分するもので、それぞれの大学区は32の中学区、各中学区は210の小学区というように、細かく分けられている。一小学校区は人口約600人を単位とした。つまり、こうして全国各地に小学校と中学校を設置し、全員が学べる制度にした。文部省予算も大幅に取り付けられ、すぐに開始された。
西郷隆盛が最も優先したのが教育制度である。西郷は庄内藩から来た若者たちに「学に志す者、規模を広大にせずば有る可からず。さりとて、唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、身を修めるにおろそかに成りゆくゆえ、終始、己に克ちて身を修するなり。規模を広大にして己に克ち、男児は人を容れ、人に容れられてはすまぬものと思えよ」と説く。
また明治政府は、各大学区に一校ずつ設置する帝国大学について、1915年までに完成させる方針を打ち出している。
国立銀行条例設定布達
明治5(1872)年制定の国立銀行条例に基づき、政府発行の不換紙幣の整理と殖産興業資金の供給を目的として、第一国立銀行が設立された。 当初別々に銀行設立を計画していた三井と小野組が共同で出資して、渋沢栄一が総監督(頭取)となる。その後、民間資本を導入した銀行が各地に、その土地の資産家が中心となり設立されていった。銀行設立は、その後の日本経済の立て直しの原動力となり、国内各地では殖産が興業しはじめた。
西郷は財政面では、トント薄いか、というと、そうではない。欧米視察中の大久保の代わりに大蔵卿を西郷が兼務するが、大枠だけ掴み、あとはほとんど大蔵大輔(おおくらのたいふ)の井上薫らに任せている。
「国立銀行」は、国立銀行条例に基づく銀行という意味の名称で、国営銀行ではなく民間銀行であった。もっとも、民間の銀行の中でも、「国立銀行」が銀行券を発行していたのに対し、「私立銀行」は銀行券を発行できないという違いがあった。
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マリア・ルーズ号事件
明治5(1872)7月のペルー船、マリア・ルーズ号による清の苦力(クーリー)(労働者)売買に端を発した日本とペルーの紛争事件。
同船は231名の苦力を輸送中、6月4日に船の修理のため横浜に入港。その際監禁されていた苦力が逃亡し、イギリス軍艦に救助を求めた。イギリス公使からの通報に際し、神奈川県令陸奥宗光は条約未締約国などの理由で外交問題化を懸念し反対した。しかしこれを大江卓は西郷隆盛に掛け合い、これを奴隷売買事件として外務省管下の裁判とすることを決定させるとともに、大江自身を神奈川県権令に任じさせ、さらに特命裁判長として県庁に法廷を開かせた。
ドイツなどの領事から、条約未締約国との交渉は領事団との商議事項であるとする抗議があったが、審理は未締約国裁判として各国領事立会いのもとに進められ、大江はマリア・ルーズ号の船長ヘレイラを裁判所に召喚し、人身売買の疑いが
あるとして苦力(クーリー)全員の釈放・本国送還を命じた。
裁判の過程でペルーの船長は、「日本の芸娼妓(げいしょうぎ)約定が奴隷契約ではないか。なぜ中国人苦力の売買はあってはいけないのか」と反論した。確かにこれは、人身売買ともいえる奴隷制度であった。裁判が終わった後、この件が司法省から左院に挙げられて審議になった。左院では、「娼妓・芸妓など前借金による年期奉公人などは、人間ではあるが自由を奪われたもので、牛馬と変わりはない」という確認がなされ、そこで「牛馬に人身売買の代金を請求する謂れはない」「牛馬に支払い能力はないので、無償で開放すべき」との声が上がり、「吉原などに囲われている娼妓・芸妓は家に帰すべきだ」との結論に至った。
早速正院で諮(はか)ると、進行役の西郷は、思わず「ほう。こげな解釈もありますか。大隈参議、ご不満の様子だが、どげんごわすか。禁止の布告に反対でごわすか」状況は江藤新平参議から十分に知らされていた大隈重信を、故意に名指した。大隈の吉原通いが、あまりにも有名であったからである。10月2日、太政官決定で、人身売買の禁止と娼妓・芸妓の無償開放を布告した。
その後、ペルー政府がこの判決を不服としたため、明治8(1875)年、アメリカ公使デ・ロングの勧告で、もっとも両国に利害関係が薄いと考えられたロシア政府に仲裁裁判を依頼することとなったが、「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする最終判決が下り、ペルー側の訴えは退けられた。
富岡製紙工場が操業開始
薩摩藩士石河確太郎と富岡製糸場
日本の産業革命は島津斉彬の遺志を実現したものである。2014年6月に『富岡製糸場と絹産業遺産群』が世界文化遺産に認定された。この富岡製糸場が設立された明治5 (1872)年は、西郷隆盛らが岩倉使節団の留守を預かっていた留守政府時代であり、当時、蒸気機関を扱えた日本人は、名前がわかっている限りでは薩摩藩士石河確太郎のみである。
かつて、絹織物業において日本製のほとんどは世界へ輸出されていた。1925年生糸の輸出割合は生産量のおよそ84.7%を占め、1935年には生産量のピークを迎えている。鹿児島では宮之城に片倉製糸があった。片倉製糸といえば、かつて富岡製糸場の操業を受託していた会社である。富岡製糸場は、明治5 (1872)年に官営工場として操業を開始している。また明治10 (1877)年には、同じ群馬にくず糸を集めて紡績を行う、新町紡績所が操業を開始した。新町紡績所は日本最初の絹糸紡績所である。
石河は薩摩藩において慶応3 (1867)年に日本最初の機械紡績所・鹿児島紡績所を作った。その紡績工場の技師のための館として作られたのが、『明治日本の産業革命遺産』の構成資産リストに載っている旧鹿児島紡績所技師館、通称・異人館である。石河は御雇いの技師として富岡製糸場に呼ばれており、月給100円という当時では最高の給与をもらっていたことは群馬史料研究という雑誌によって明らかにされている。
明治日本の薩摩革命遺産①より
太陽暦採用
新暦と旧暦が印刷された引札(ひきふだ)(広告のチラシ)(三重県立博物館所蔵)
暦を引札に利用する方法は、現在もカレンダー等で受け継がれているが、明治時代の初めでは、暦は印刷も出版も明治政府の管理下におかれていたため、当時は考えられないことだった。しかし、1882年4月26日付けの「太政官布達第八号 内務卿連署」によって解禁となる。
「本暦並略本暦ハ伊勢神宮ヨリ領布シ、一枚摺略暦ハ明治十六年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準処シ出版スルコトヲ得」というものだ。当時の人々にとって、暦は、今以上に重要で生活の中に溶け込んでいた。だから、見やすい一枚刷りの暦は特に重宝がられた。また宣伝主にとっても、捨てられず壁に一年間貼られる暦への広告は、とても効果的だったといえる。
明治政府は、1872年に旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への移行を強行したが、農家をはじめ当時はまだ旧暦を用いる人々が多かった。政府が暦を変えたからといって、国民の生活リズムがすぐに変わるわけではない。そこで、当時の暦は新暦と旧暦を並べて掲載するものが多かった。広告部分を挟んで、右に新暦、左に旧暦という具合である。
(三重県立博物館 宇河雅之)
キリスト教解禁
佐野市指定文化財キリシタン禁止の高札
明治6年(1873)2月24日、政府は、太政官布告第68号により、キリシタン禁制の高札を撤去しました。これにより、キリスト教に対して、江戸時代初期以来つづけられてきた、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれました。掲載資料は、2月24日の太政官布告第68号の内容を収録した文書です。
明治2年(1869)6月版籍奉還によって各藩主は知藩事に任命され、同4年(1871)7月廃藩置県によって、各藩は県と改称され、知藩事は県令に代わりました。まもなくすべての県は廃止され、同年11月に中央集権制の道府県が定められました。
彦根藩も彦根県となりましたが、わずかに4か月で栃木県の一部となりました。この高札は、その時のもので非常に珍しく、依然としてキリスト教を禁止しています。
栃木県佐野市高砂町1 教育部文化財課より