西南戦争と三菱
西南戦争と三菱 薩摩の強さは近代銃の製造工場を導入、稼動させていた事実,明治9年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている[1]。 陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。 火薬庫襲撃事件 連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。*この弾薬略
西郷南州翁逸話
恩賞を固辞 西郷は明治2年、維新の功労により、第一の元勲として賞典録を朝廷から受け、藩士としての最高の永世賞大典録二千石。更に9月には王政復古の功により正三位に叙された。 しかし、西郷は自分の如き無名の藩士が、かような位階をうけては、第一これまで戦死した多くの志士に対して誠に申し訳ないとして再三辞退を申しでた。半生の心血を傾けて王政復古の聖代を迎え得たことが無常の感激であるので、それ以上、個人的な栄誉を望むのは、天意に反するものであるとの、誠に清く高い心境は、到底凡人の思い及ばぬことであり、西郷のような真に己を空しゅうする至誠の人に対して初めていたり得るところである。 巡査から怒られる 伊作の与倉集落から出て16歳から西郷家にいた家僕の、老後の思い出話だが、西郷家の所有地が吉野の雀ケ宮にあったもので、南州翁は、そこへ行く時には、広馬場の西本酒屋から焼酎糟や酒粕を買って樽につめ、馬に積んで自ら引いて出かけられた。 ある時、4才の次男、午次郎さんを背負い、お供をして、吉野に行く途中、上町の車町で、石につまずいて、足を痛めたところ、旦那はすぐ近くの瀬戸
西郷内閣の功績(明治4年~6年)
西郷を首班とする留守内閣は、現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。 この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官に付いた。勝海舟(海軍大輔)大久保一翁(東京府知事)山岡鉄舟(宮内侍従)大鳥圭介(大蔵小丞)等である。戊辰戦争の恭順はであった勝・大久保・山岡はともかく、最後まで抵抗して箱館戦争の責任者の榎本武揚などは、長州派は殺してしまえとの号令であったが、西郷の一諾で死刑を免れた。なお長州派の猛烈な反対を排して、西郷は恩讐を超えて榎本らに活躍の場を与えた。 この時代、旧幕臣も初めて自由にものが言えるようになり、うっせきした空気も次第にほぐれ、自由、改進の風潮が社会の傾向として、人々に浸透していたという。(福澤諭吉・時事大勢論)新聞・雑誌も相次いで創刊された。明治4年から5年にかけて創刊された新聞には、「日新真事誌」「新聞雑誌」「東京日日新聞」「郵便報知新聞」などがあり、地方では「大阪新聞」「京都新聞」「山梨日日新聞」「茨城新聞」「信飛新聞」「開花新聞」などがあった。 以
横山安武割腹自殺
横山安武割腹自殺 政府の腐敗に薩摩藩士割腹自殺! 『明治三年七月 、薩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、時勢に慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に提出して太政官正院の前で自殺したことがあったが 、後に安武の碑が立つ時 、西郷は参議でありながら 、自ら筆を取って 、その激烈な慷慨の情に共鳴同感する意味の碑文を草している 。安武の不満は西郷の不満であったのである 。』 明治3年7月27日、島津久光の信任暑い旧薩摩藩士、横山安武は明治政府のあまりの時勢に憤慨して改革意見書を提出し、時弊10ケ条を記し政府正院前で割腹自殺した。 衆議院の御門を警備していた守衛の話によれば、横山正太郎が門前やって来たのは、7月27日夕方、身なりを整え、正装で現れた横山は、静かに門前に正座すると守衛に向かい、「これからここを汚すが、どうか勘弁して欲しい」と丁寧に挨拶をした。「ただならぬ雰囲気はすぐに察したが、あまりに落ち着いた様子だったので、つい止める機会を失ってしまった」このように、横山は守衛が呆気に取られているうちに、素早く懐をくつろげて、短刀を突