

「ヒーローズ・クォーター」
第28代アメリカ合衆国ウィルソン大統領の国務長官を歴任、民主党の大統領候補者に3回選出された経歴を持つ、アメリカの歴史の中で最も人気のある雄弁家の一人であった、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏が明治40年頃日本を訪問しました。 たまたま「敬天愛人」の句を見て、この句は欧米の道徳宗教の真髄を端的に言い表したものであると感服され、しかも、それが西郷隆盛という武人の言で、その人物の事跡の偉大なることも聞き、驚きのあまり、当時交通極めて不便な鹿児島まで行き、西郷の生地、活動状況、墓地などを調査し、その結果非常に驚いたが、さらに驚きをましたことがある。 それは、その出生地鹿児島の加治屋町という極めて小地区から西郷隆盛をはじめ当代一流とも言われる人材多数輩出しておることを見出し、非常に驚き、これは全世界にまれなることいって、加治屋町地区を「ヒーローズ・クォーター」(偉人地区)と命名された. ウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏 加


■ ラスト・サムライ
咲く花の美しさ、散り際の潔さー花は散るために咲くのではない。己の天命を知り、そのかけがえのない命を、ー分の迷いもなく全うするからこそ、美しい ------------------------
日本人の 中に脈々と息き、今なおそのDNAを熱く刺激するサムライ・スピリット。現在欧米で活躍する日本の男達が「サムライ」と称され、その「大和魂」に注目が集るのは、理由のないことではない。
人々は彼らの中にサムライ・スピリットを見る。そして、その魂に魅了される。『ラスト・サムライ』は日本の魂であるサムライ・スピリットにハリウッドが初めて真っ向から取り組んだ記念碑的作品である。
舞台は明治維新の日本。日本という国は、こんなにも美しい国だったのか。日本人は、これほどまでに誇り高く、強く、切なく、真っ直ぐに生きてきたのか、とやがて、サムライたちは、最期の決戦へと旅たっていく。
その先に待つものが、たとへ何であったとしても、男達の瞳には一点の迷いもない。壮絶にして美しい生きざまに、震えるほどの感動が押し寄せる。日本のサムライ・スピリットは、


西郷家の家紋と遺族
● 西郷家の家紋 明治天皇は深く南洲翁の士気人物を愛し給ひ、明治の初年、上の如く16瓣の菊花を中央に 、左右2枚葉を以って相せる紋章を「以後これを家紋とせよ」と下賜されました。 ● 南洲翁夫人「糸子」 晩年のもので71才の時の写真 ● 西郷寅太郎(習志野収容所長・陸軍大佐) 明治天皇深く南洲翁の偉勲を偲び、明治35年侯爵を授け賜った。 大正7年(1918)11月、第一次世界大戦はドイツの敗北。そして、うちひしがれる習志野のドイツ兵をあざ笑うように、スペイン風邪が襲いかかってきたのであった。12月に最初の死者が出て、次の犠牲者は西郷所長であった。大正8年1月1日、朝から高熱を出していた西郷所長は医師が止めるのも聞かず、乗馬で収容所へ向った。年頭のあいさつとして敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年が彼らにとって帰国の年となることを伝えようとしたのである。あるドイツ兵は、所長の死亡はこの日の午後4時であったと、敬意を込めた墓碑銘のように記している。享年54歳。 ● 元京都市長 西郷菊次郎氏家族。大正15年の夏撮影 。 西郷菊次郎は四郷隆盛の


不世出の英雄 西郷隆盛
西郷隆盛は不世出の英雄なり、予かって之を論じて言へることあり、曰く、『陛下は天授、人力の能く及ぶところに非ず』・・『天皇陛下は天から授かったものであり、人の力ではどうにもならない』その他に誰かと言えば、明治の天地、西郷隆盛ただ一人である。普通の人が、豪傑、偉そうに見えるのは大体、事業が成功して名前が売れてからであるが、西郷だけはそうではない。
● 島津斉彬は、門閥にこだわらず多くの家来の中から身分の低 い西郷を重用した。
● 藩内の健児幼い時から西郷を畏れる。
● 薩摩を出て京都や江戸に出ると全国の志士達が皆西郷を敬う。
● 水戸の藤田東湖は、倣岸ごうがんでめったに人を褒めないが、西郷を一目見て惚れた。 ● 豊後の小河一敏、
有志の士なり、文久の初、西郷と合った事を日記に 書いて『始めて西郷に面会した時、その威風堂々いふうどうどう、誰にもまねが出来ない胆略たんりゃく、このような人が今の世にいるとは思われない』と言った。
● 石見の福羽美靜子爵もまた、
立派な人だが、初めて西郷、大久保を見たときの感想を私に語りて曰く、『美靜の千言
西南戦争における薩軍の大義
私学校が上京の準備に取り掛かっているらしいことを密偵からの情報で知った大久保利通は、これを政府に対する挙兵の準備と受け取ってしまったのです。大久保は早くから私学校を眼の敵にしていました。
大久保は私学校暴発を前提に準備を進めます。 その結果、私学校徒による武器弾薬庫略奪事件や私学校幹部に対する刺客派遣の疑惑発覚などの悪い事件が重なり、大陸政策提議のための陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題に対する尋問という名分にすりかわってしまったのです。 これは政府の不正に対する尋問の行動であって、即挙兵というわけではありませんでした。これが挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたからです。それが薩軍の側から見た応戦-開戦の理由でした。ここで薩軍の行動の大義が明確になるのです(-④)。
薩軍出発の直前に南洲翁に面会した鹿児島県令・大山綱良は、この時、薩軍上京の理由を翁自身は次のように語ったと、後の政府の尋問に答えている。
「西郷より自分(大山綱良)