2018/04/25

南洲墓地内に建立された供養塔と石碑

南洲墓地、原口会長不参加へ

 NHK大河ドラマ「西郷どん」放送で盛り上がる鹿児島県内に、わだかまりが残りそうな事態が起きている。西南之役官軍薩軍恩讐=おんしゅう=を越えての会(原口泉会長)は来月6日、鹿児島市の南洲墓地で戦没者の回向=えこう=(読経などで死者の冥福を祈る)を行う。同会は昨年9月に同地で石碑の除幕式を行っており、事務局は「西南戦争は国内最大の内戦で、日本人同士が戦った悲劇。当日は敵味方なく戦没者の冥福を祈りたい」とコメント。これに対し一部から、大久保利通を慰霊することに反感が出ており、原...

2017/11/01

  第28代アメリカ合衆国ウィルソン大統領の国務長官を歴任、民主党の大統領候補者に3回選出された経歴を持つ、アリカの歴史の中で最も人気のある雄弁家の一人であった、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏が明治40年頃日本を訪問しました。

たまたま「敬天愛人」の句を見て、この句は欧米の道徳宗教の真髄を端的に言い表したものであると感服され、しか、それが西郷隆盛という武人の言で、その人物の事跡の偉大なることも聞き、驚きのあまり、当時交通極めて不便な鹿児島まで行き、西郷の生地、活動状況、墓地などを調査し、その結果非常に驚いたが、さらに驚きを...

2017/11/01

咲く花の美しさ、散り際の潔さー花は散るために咲くのではない。己の天命を知り、そのかけがえのない命を、ー分の迷いもなく全うするからこそ、美しい ------------------------
 
 日本人の 中に脈々と息き、今なおそのDNAを熱く刺激するサムライ・スピリット。現在欧米で活躍する日本の男達が「サムライ」と称され、その「大和魂」に注目が集るのは、理由のないことではない。
 
 人々は彼らの中にサムライ・スピリットを見る。そして、その魂に魅了される。『ラスト・サムライ』は日本の魂であるサムライ・スピリットにハリウッドが初め...

2017/11/01

西郷家の家紋

 明治天皇は深く南洲翁の士気人物を愛し給ひ、明治の初年、上の如く16瓣の菊花を中央に 、左右2枚葉を以って相せる紋章を「以後これを家紋とせよ」と下賜されました。

南洲翁夫人「糸子」

 晩年のもので71才の時の写真

西郷寅太郎(習志野収容所長・陸軍大佐)

明治天皇深く南洲翁の偉勲を偲び、明治35年侯爵を授け賜った。


大正7年(1918)11月、第一次世界大戦はドイツの敗北。そして、うちひしがれる習志野のドイツ兵をあざ笑うように、スペイン風邪が襲いかかってきたのであった。12月に最初の死者が出て、次の犠牲者は西郷所長であ...

2017/11/01

 西郷隆盛は不世出の英雄なり、予かって之を論じて言へることあり、曰く、『陛下は天授、人力の能く及ぶところに非ず』・・『天皇陛下は天から授かったものであり、人の力ではどうにもならない』その他に誰かと言えば、明治の天地、西郷隆盛ただ一人である。普通の人が、豪傑、偉そうに見えるのは大体、事業が成功して名前が売れてからであるが、西郷だけはそうではない。

● 島津斉彬は、門閥にこだわらず多くの家来の中から身分の低 い西郷を重用した。
● 藩内の健児幼い時から西郷を畏れる。
● 薩摩を出て京都や江戸に出ると全国の志士達が皆西郷を敬う。
● 水...

2017/11/01

私学校が上京の準備に取り掛かっているらしいことを密偵からの情報で知った大久保利通は、これを政府に対する挙兵の準備と受け取ってしまったのです。大久保は早くから私学校を眼の敵にしていました。
 大久保は私学校暴発を前提に準備を進めます。

その結果、私学校徒による武器弾薬庫略奪事件や私学校幹部に対する刺客派遣の疑惑発覚などの悪い事件が重なり、大陸政策提議のための陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題に対する尋問という名分にすりかわってしまったのです。


 これは政府の不正に対する尋問の行動であって、即挙兵というわけではありません...

2017/10/31

西南戦争と三菱

  薩摩の強さは近代銃の製造工場を導入、稼動させていた事実,明治9年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている[1]。


陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給され...

2017/10/31

恩賞を固辞

   西郷は明治2年、維新の功労により、第一の元勲として賞典録を朝廷から受け、藩士としての最高の永世賞大典録二千石。更に9月には王政復古の功により正三位に叙された。

  しかし、西郷は自分の如き無名の藩士が、かような位階をうけては、第一これまで戦死した多くの志士に対して誠に申し訳ないとして再三辞退を申しでた。半生の心血を傾けて王政復古の聖代を迎え得たことが無常の感激であるので、それ以上、個人的な栄誉を望むのは、天意に反するものであるとの、誠に清く高い心境は、到底凡人の思い及ばぬことであり、西郷のような真に己を空しゅうする至誠...

2017/10/31

  西郷を首班とする留守内閣は、現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。

この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官に付いた。勝海舟(海軍大輔)大久保一翁(東京府知事)山岡鉄舟(宮内侍従)大鳥圭介(大蔵小丞)等である。戊辰戦争の恭順はであった勝・大久保・山岡はともかく、最後まで抵抗して箱館戦争の責任者の榎本武揚などは、長州派は殺してしまえとの号令であったが、西郷の一諾で死刑を免れた。なお長州派の猛烈な反対を排して、西郷は恩讐を超えて榎本らに活躍の場を与えた...

2017/10/31

横山安武割腹自殺

政府の腐敗に薩摩藩士割腹自殺!

『明治三年七月 、薩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、時勢に慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に提出して太政官正院の前で自殺したことがあったが 、後に安武の碑が立つ時 、西郷は参議でありながら 、自ら筆を取って 、その激烈な慷慨の情に共鳴同感する意味の碑文を草している 。安武の不満は西郷の不満であったのである 。』

明治3年7月27日、島津久光の信任暑い旧薩摩藩士、横山安武は明治政府のあまりの時勢に憤慨して改革意見書を提出し、時弊10ケ条を記し政府正院前で割腹自殺し...

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