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沖永良部の西郷さん

沖永良部島新民謡

【南国エレジー】作詞 谷元義男/作曲 竿田富夫

【花恋慕】作詞 山口喜慶・島田陽子/作曲 市川昭介 

文久2年(1862年)8月14日、西郷隆盛を乗せた宝徳丸が沖永良部島伊延港到着しました。代官黒葛原源助は、付属役福山清蔵と一緒に乗馬を用意して西郷隆盛を伊延港迎えた。沖永良部島の間切横目(警備の警察官)土持政照も同伴した。西郷隆盛は整然とした態度で出迎えの各位に対して「遠来の労に感謝します。これからは一流罪人として各位を煩わす事になりますが、よろしくします」と、言葉は乱れず、自ら謹慎の意を表した。衆は皆感激し、その礼儀の良さに感謝して、乗馬を勧めたが西郷は乗馬を拒み 「私は罪人の身であるから、再び土を踏むことはないであろう。もう一度この土を踏みしめさせて下さい」と言った。一同は西郷の意に任せ、徒歩で和泊に着いた。和泊役場では西郷を慰めようと酒の用意をしていたが、西郷は辞退した。西郷は早く牢屋に入る事を希望し、鹿児島から派遣されて来た足軽に鍵の点検をさせ静かに座禅を組んだ。

◆ 牢屋は2坪余りの粗末な建物

東西南北、戸はなく壁もなく4面四寸角の格子である。牢屋は狭い上に戸もなく壁もない、夏の昼間は焼け付くように暑く南国の太陽がさし込み、また沖永良部島は台風の多いいしまです。台風の時は大波が押し寄せ、牢屋の中に音を立て中に飛び込んできます。冬になると北西の風が吹きます。牢屋の中で西郷はぶるぶる震えながら座禅を組んでいました。この様子を見ていて土持政照(警察官)はこれは大変だ、このままでは西郷さんは死んでしまうと思い自分の家でご馳走を作り持っていきましたが、西郷さんは「美味しいもの食べると死に顔が見苦しいものだそうです。せめて死に顔だけはきれいにしたいと思いまして」と言ってそれを返しました。不自由な牢屋生活で、西郷の体は、だんだん痩せ細り、顔は青白く、髭はぼうぼうとなり、病人になってしまいました。

◆ 土持政照

 

土持政照の「思いやりの心」が無ければ自分はあの牢屋の中で死んでいただろう。自分が今生きていられるのは政輝のおかげである、こんな素晴らしい男は見たことが無い、義兄弟の約束を結んで互いに助け合い、国の為に働きたいものだ、しかし自分は牢屋に入っている罪人である。その罪人がお願いしても良いものか、政照は、お母さんはどう考えるだろうか、いろいろ迷ったが、ある日政照に今夜お願いしたい事があるので今夜お母さんと二人、酒とさかなを持って牢屋に来てくださいと手紙を出しました。政照は今まで、自分がいくらお酒を勧めても断っていた西郷さんが自分から進んで「酒とさかなを持って来て下さい」といって来た。心から自分を信じた事を喜んだ政照はお母さんと酒とさかなを持って牢屋に行きました。今夜は政照さんとお母さんに、折り入ってお願いしたい事がありましてお呼びしました、実は前々からお願いしようと思っていたのですが、牢屋に入って売る罪人がこんな事をお願いしても良いものかどうか迷いましたが、今晩思い切って申し上げます。政照さんとお母さんのご親切私は他人と思えません。本当の兄弟、本当の親子のように思えてなりません。どうかお母さん私と政照さんに、兄弟の約束をさせて下さいませんか、お願いします。

  「西郷さま、それほどに政照の事を・・・どうかよろしくお願いいたします。」
西郷 「許してくださいますか、こんなありがたい事はありません、お母さん、杯を下さい」

西郷は母からもらった杯を涙と共に飲み干してから「今日からどうか、本当の子供だと思ってください」と言ってその杯を母に返しました。座敷牢の中から差し伸べられた西郷の手を取って、母(鶴)は杯を受けました。

西郷 「政照さんつまらない男であるが、私の方が年上だから兄になりますよ」
と言いながら西郷は別の杯を政照にさしました。

文久3年(1853)3月の末、西郷37才、政照28才

◆ 川口雪蓬との出会い

雪蓬は陽明学を深く研究した人で、詩や書の達人でしたが、酒が大変好きで、ある時お酒を買うお金が無くなり、そこで殿様の大事な本を質に入れて、その金で酒を買って飲みました、そのの事が後でばれて沖永良部島に島流しになっていました。ある日の事政照は川口に会いました。川口は「大島吉之助という人が、島流しになって和泊の牢屋に入ているそうだが、ぜひ会って慰めたい自分を紹介してくれ」と言いわれ、西郷に話すと大変喜ばれ、そんな人ならぜひ会いたいと言われました。雪蓬はすぐたずねて来られ、二人は鹿児島方言で、鹿児島の事、日本の事、歴史の事、時の立つのも忘れて話し合いました。それから雪蓬は毎日牢屋を訪れ書や詩の作り方をおしえました。西郷より少し遅れて鹿児島に帰り、西郷家に住みついて西郷亡き後は約束どおり西郷家の家族を守り明治23年に病気で亡くなりました。鹿児島市の「西郷墓地の墓の墓標」は雪蓬の書である。

◆ 役人の心得

ある時、土持政照が西郷に「この島を幸せな良い島にする為に、役所や警察官はどんな心掛けが大事であるか、教えて下さい」とお願いしました。西郷は政照は年は若いが将来必ずこの島を背負って立つと思い、与人役大体、横目役大体、と言うものを書いて渡しました。

◆ 与人役大体

人民の幸、不幸は上に立つ役人が良いか、悪いかによって決まるものであるから、役人が良ければ人民皆幸せになるが、役人が悪ければ、その害は台風よりもひどく、人民を不幸にするものである。まず良い役人とは、第1に百姓を可愛がり、百姓の喜びを自分の喜びと考え、百姓の不幸を、自分の不幸と考えて仕事をする役人である。第2に、良い役人とは、自分の為の欲を持たない役人である。次に、たとえ代官の命令でも、まず百姓の為になるかどうかを考え、百姓を痛める様な事は絶対にしない役人であると、教えました。

◆ 横目役(警察官)大体

警察官の使命は、罪人を罰する事よりも、罪人が出ないように人民を指導するのが警察官の使命である、と教えました。初代の大警視警視川路利良は「声無きを聞き、姿無きを見る、警察は国民の守り神である」と教えておりましたが現在の警察官にも是非継承してもらいたいと思います。

◆ 社倉法

鹿児島から約550キロ離れたこの島は、台風が多く干ばつや、飢饉になる心配があるから、豊年の時に、皆で米や麦などを高倉に蓄えておき、飢饉の年に、それを皆に配給するのですよ。一番大事なことは、島の人たち皆が心を一つにして、力を合わせあたる事ですよ。皆が心を合わせた力程強いものはありません。と言って「社倉趣意書」と言うものを書いて政照に与えました。後、与人となった政照は明治3年(1870年)沖永良部社倉をつくりました。この社倉は、飢饉の年に島の人々を助けたばかりではなく、貧乏な人々を助けたり、病院を立て、学資に困った人々助け大変大きな働きをしました。明治32年に沖永良部社倉は解散になりましたが、その時、社倉にはたくさんの資金が残っておりました。その中から、1,500円は「西郷隆盛謫居之地」の記念碑と「南洲文庫」を立てる費用に500円を「土持政照翁彰徳碑」を建てる費用に寄付し、残りを和泊村と知名村に半分ずつ分け、両村の大事な基金になりました。

沖永良部社倉は日本最初の協同組合、相互組織です。

その後、明治35年矢野恒太翁により日本最初の本格的相互会社(第一生命保険相互会社)が誕生しました。約100年前に先人が崇高な思想により設立された生命険相互会社が現在は金儲け主義の株式会社に逆も度りしている現実に残念でなりません。

矢野恒太翁の碑

翁は慶応元年医師矢野三益の長男として竹原に生まれた。明治22年岡山医学校を卒業し、生命保険事業に従事し業務を習得した。やがて年来の主張である非謝利主義生命保険の必要を説き、その努力がようやく認められ相互組織第一生命保険会社を設立させた。昭和5年角山・雄神・芳野・御休・平島・浮田・古都7ヵ村組合立上道補習学校設立にあたり巨額の寄附をよせ、また欧米を視察したとき、デンマークの青年教育に魅せられ昭和9年竹原に三徳塾を創立した。農業後継者育成のために矢野賞、三徳賞の制度も作られた。昭和26年85歳の多彩な一生を閉じた。昭和29年4月三木県知事の主唱で頌徳碑が塾の構内に建てられた。

西郷隆盛敬に学ぶ 敬天愛人フォーラム21