「ヒーローズ・クォーター」

November 1, 2017

  第28代アメリカ合衆国ウィルソン大統領の国務長官を歴任、民主党の大統領候補者に3回選出された経歴を持つ、アリカの歴史の中で最も人気のある雄弁家の一人であった、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏が明治40年頃日本を訪問しました。

 

たまたま「敬天愛人」の句を見て、この句は欧米の道徳宗教の真髄を端的に言い表したものであると感服され、しか、それが西郷隆盛という武人の言で、その人物の事跡の偉大なることも聞き、驚きのあまり、当時交通極めて不便な鹿児島まで行き、西郷の生地、活動状況、墓地などを調査し、その結果非常に驚いたが、さらに驚きをましたことがある。

それは、その出生地鹿児島の加治屋町という極めて小地区から西郷隆盛をはじめ当代一流とも言われる人材多数輩出しておることを見出し、非常に驚き、これは全世界にまれなることいって、加治屋町地区を「ヒーローズ・クォーター」(偉人地区)と命名された.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウィリアム・ジェニングス・ブライアン氏                                                              加治屋町(ヒーローズ・クオーター)

 

 薩摩藩政時代鹿児島には各地域に「郷中」という独特な青年武士の集団組織があってここで互いに心身の練磨に励みました。この郷中教育の結果城中から優れた人物が輩出していますが、特に「加治屋町」郷中は著しく明治維新の立役者西郷隆盛始め大久保利通、元帥西郷従道、日露戦争、満州軍総司令官、元帥陸軍大将、大山巌、海軍大将東郷平八郎、陸

 

軍大将黒木為禎、総理大臣海軍大将山本権兵衛など明治の代表的人物が生まれ育ったところです。 現在格誕生地跡には、石碑が建立されています。

 

西郷隆盛 祝 190年祭(1827~1877)

 

 文政10年(1827)12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町山之口馬場で生まれました。幼名は小吉、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助で通しました。南洲はその雅号です。西郷家の家格は「御小姓与」で、薩摩藩の士分では、下から二番目の身分である。少年の時、けんかで右腕を負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになったため、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと伝えられています。
 16才の時、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。藩の郡方は、当時の税である年貢の徴収等も行なっていました。西郷が郡方に任命された時の責任者・郡奉行は、迫田太次右衛門利済で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けたと伝えられています。ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、

「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」

 と書いて、郡奉行を辞職しました。虫とは「役人」のことを意味し、いつふし草とは重税に苦しむ「農民」のことを指しています。つまり、「役人が農民に過剰な税を課し、いじめることは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。西郷はこの迫田から農政に関することを一から学びました。この迫田から得た知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。

 

嘉永4(1851)年2月2日、斉彬は島津家28代当主の薩摩藩主に就任すると、安政元(1854)年、西郷は郡方書役助から「中御小姓、定御供、江戸詰」を命ぜられ、斉彬に付き従って、江戸の藩邸に勤務することとなった西郷は、斉彬より庭方役を拝命しました。

斉彬の厚い薫陶を受けた西郷は、当時、天下に名を馳せていた水戸藩の藤田東湖等、志の高い人物たちと交流を持つことになり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていきました。西郷は、斉彬によって天下のことを知り、そして世に送り出されたと言えます。西郷がそのように朝廷工作に忙しく追われている最中、 鹿児島城下の天保山で兵を調練中であった斉彬が、安政5(1858)年7月16日、突然急逝したのです。

 

「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない……」


 西郷は国許薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを覚悟しました。
 しかしながら、西郷は、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照にそのことを諌められました。安政の大獄が始まり井伊大老の恐怖政治により、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた月照も、その身が危険となりました。

西郷は帰国するや否や、藩政府の要人たちに対し、月照の保護を熱心に求めました。藩政府は西郷に対し、はるばる薩摩までやって来た月照を無情にも藩外に追放するように命じたのです。

しかし、西郷は薩摩藩士として、藩の命令に背くわけにはいきません。

この事態に絶望した西郷と月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じました。
安政5年(1858) 11月16日、西郷吉之助30歳のことでした。

 

冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。幕府の目から逃れさせるため、西郷もともに死んだと幕府に届けて、菊地源吾と名前を変えて、安政6年(1859)1月、奄美大島へ謫居されました。

 

 西郷は、住居のあった龍郷一の名家である龍家の一族の娘・愛加那と結婚し、菊次郎、菊子をもうけ、三年もの間、片時の幸せな新婚生活を過ごすことになるのですが、激動の時代は、まだ西郷のことを必要としていました。

召喚命令につき、文久2年(1862)2月11日、西郷は約三年ぶりに本土・鹿児島の地に戻ることになったのですが、「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」という島津久光の命令を無視し、勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、ついに西郷の捕縛命令をうけ、薩摩へと送還された西郷は、藩から徳之島への遠島を申し付けられました。

 

 その後、西郷は徳之島から沖永良部島への遠島替えを命じられ、沖永良部島での生活は、峻烈を極めました。昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。
 沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことが窺い知れます。西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口にせず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。
 このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、次第に体力も限界へと近づき、死を覚悟しました。そして次の詩を残しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

獄中感有り

朝に恩遇を蒙り 夕べに焚坑せらる。人世)の浮沈 晦明に似たり、

縦い光を巡らさざるも 葵は日に向かう、若)し運を開くなきも 

意は誠を推(お)す。

洛陽の知己 皆鬼となり 南與の俘囚 独(ひと)り生を盗む。生死何ぞ疑わん

天の付与なるを、願わくは魂魄を留めて 皇城を護(まも)らん

 

    敬天愛人発祥の地の碑             牢屋              牢屋の中で端座する南州翁

西郷は厳しい逆境の中から天の思想「敬天愛人」を得とくし、島の若者たちを指導、地域の発展のための未来を提案した。

 

その頃、薩摩藩では薩英戦争等で政治的に行き詰まって薩摩藩内に、「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という西郷赦免運動が起こり始めました。

 

 

元冶元年(1864) 2月28日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。
そして、西郷は席の暖まる暇もなく京都へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」に任命されました。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、諸藩応接係は外交官のような役職です。そして、この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。

元冶元(1864)年7月18日夜、長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門を中心に攻めかかりました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。世に言う「蛤御門の変」とか「禁門の変」と言われているものです。

 

元冶元年(1864) 9月11日、大坂に幕臣勝海舟と面会する。


「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物でした。最初はやっつけるつもりで会ったのですが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです」西郷は勝の人物に惚れたようです。

 

 

その後の薩長同盟、王政復古、江戸城無血開城、廃藩置県、宮中の改革、学校制度の確立

警察制度、銀行制度創設、マリア・ルーズ号事件の解決、地租改正、陸軍創設等明治維新の回天の立役者として、近代国家の礎を築きましたが、明治10年、政府による度重なる挑発に私学校生徒たちが暴発して、やむなく西南戦争に発展し、故郷城山において自害して享年49歳の生涯を遂げられました。

 

 

福沢諭吉の証言

 

西南の役の近因は、刺客が先か、弾薬略奪が先か、水掛け論である。しかし遠因は、明らかに明治6年の政変である。福沢諭吉は、西南の役に際し、その正邪を識別し、密かに「丁丑口論」を綴ったが、その中で彼は、明治6年の政変で大久保らが、西郷を廟堂から退けた理由は、何一つとして筋が通らない。筋が通らないとすれば、薩軍は賊ではなくて、むしろ義軍であるという。

福沢の説によると、征韓論が決裂して西郷は桐野利秋以下の将卒数百名と故郷に帰った。この時、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹等は明らかに辞職でなければ、免職でもない。多数の兵士も、正規の除隊の法に従ったものではなかった。彼らは連袂(れんぺい)して公然と東京を去ったが、政府に残る大臣諸侯は、いずれも制止することができず、黙認したのでる。だからその状況は、あたかも陸軍大将が、兵隊を指揮して鹿児島に行くといってもよかった。

 

明治10年に西郷が東上しようとして、薩南の兵士が随行して行くというとき、中央政府がこれを討伐しようとしたのは間違っている。西郷も武力で争うつもりはなく、その先発隊にはくれぐれも、発泡しないよう申し含めておいた。発泡は熊本鎮台の方で仕掛けてきたのである。政府は頭から討伐するつもりで準備していた。これは、これまで薩摩人に対して、その権柄を与えて宥和してきたことから言えば、まさに表裏反復。明らかにペテンであるというのである。                        丁丑口論

   

 

西郷の指導を受けた加治屋町の大山巌、西郷従道、東郷平八郎、山本権兵衛、

黒木為楨、井上良馨等、日清、日露戦争を勝つことができたのは、みな鍛冶屋町出身者であった。

吉井友実(1828~1891)

 

 

 

通称、幸輔、文久11年(1828)2月生まれ、幼少から学を好み秀才といわれ、西郷、大久保等と提携し国事に関与する。安政3年大阪藩邸の留守居役となり諸国の志士と親交を持つ。文久2年寺田屋事件の後島津久光の後押で幕府改革の勅命を届けに行く大原重徳に従い江戸城に談判を見守る。慶應2年薩長連合の推進につくし倒幕を進める。明治元年戊辰の役には北陸に出征勲功をたて大刀料300両を賜う。明治維新後、司法、民部、工部、宮内の各所の要職を歴任した。華族に列し伯爵を賜う。明治21年枢密顧問官。明治24年没。正二位。上野公園西郷隆盛銅像建立の提案者

 

 

 

 

 

        

 

                

 

伊地知 正治(1828~1886)

 

 

 

 

3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれる。5尺(1・5メートル)たらずの短身のうえに、左眼はつぶれ、耳遠く、左足はびっこという身体障害者であったが幼少からものすごい頑張り屋で、嘉永3年合伝流の師家となった。文久2年島津久光は軍職の首班として藩兵の指揮を命じた。慶應4年正月、鳥羽伏見の戦いでは、西郷が総大将で伊地知が参謀であった。

いざ戦となると新兵器ミニヘル銃を駆逐し、俗謡に、「伊地知正治とミニヘル銃は中にじり(聖)の筋がある」と詠われるほどの軍略を発揮した。

西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に58歳で死去。明治20年(1887年)、「国家ニ勲功アル者」として生前に遡って「伯爵」を授爵された。激烈な性格で頭脳は優れていたというが奇人としての逸話も多い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大久保利通(1830~1878)

 

 

 

西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。

明治11年年(1878)5月14日、石川県士族の島田一郎より紀尾井坂にて殺害された(紀尾井坂の変)。享年47才

 

 

 

 

村田 新八(1836~1877)

幼年時代から西郷を兄と敬った。文久2年(1862)6月久光の怒りにふれ西郷は徳之島に流され、村田は喜界島に流された。

1864年西郷と一緒に鹿児島に帰国。明治4年、岩倉使節団一行で外遊したが明治7年帰国してみると、朝鮮問題で西郷が帰郷していた。大久保に止められたが西郷さんの意見も聞かなければと振り切り帰郷した。その後私学校で子弟の教育にあたった。挙兵には消極的であったが、西郷との絆は深く、城山最後の9月24日、西郷の死を見届けてから自害した。

「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、我らの責任が掛かっているもんと心得もす」

 

 

 

 

 

 

篠原 国幹(1837~1877)

        

          千葉県習志野市の地名の由来

明治6年6月、陸軍大将西郷隆盛と共に、篠原は陸軍少将として千葉県大和田原で行なわれた明治天皇観覧の陸軍大演習に参加しました。暴風で天皇自らも全身ずぶ濡れになる中、篠原が指揮を取り取り、見事な奮戦ぶりに感激した天皇が、篠原に習えという意味から「今日からこの地を習野原と名づけ、躁練場と定める」と褒め称えたのが習志野の地名の由来といわれています。

                                                 

黒木 為楨(1844~1923)陸軍大将。伯爵。

 

 

クロパトキンに花瓶を返す

日露戦争開戦当初、ロシアが必ず勝つと思っていた韓国の某官吏はクロパトキンへの贈答品として花瓶を用意し、ザスリッチに預けた。しかし、ザスリッチが鳳凰城から退却する際に花瓶を置き忘れたため、後に入城した黒木軍に接収されてしまった。黒木はこの花瓶がクロパトキンへの贈答品であることを知ると、書面を添えてクロパトキンの司令部に送り届けさせた。その文中には、「願わくば友情の花、この花瓶中に咲いて爛漫たらんことを」という一文があったという。数日後、花瓶を受け取ったクロパトキンから黒木宛に礼状が届いた。そこには「日本人は平時余が漫遊せし時も、友誼の至らぬ事なきを示せしが、今戦時となるも、敵として頗る美しき精神を有せる者なることを示す。余はかかる敵と戦い、たとえ敗北しても決して恥辱に非ずと信ず」と書かれていた。

 

 

 

大山 巌(1842~1916)

 

幼名は岩次郎。通称は弥助。階級は元帥陸軍大将。栄典(位階勲等および爵位)は従一位大勲位功一級公爵。大警視(第2代)、陸軍大臣(初・2・3・4・6・7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老、貴族院議員を歴任した。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたる。西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。 

西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。

ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた

 

 

 

 西郷 従道、(1843〜1902)

 

西郷吉兵衛の三男。西郷隆盛の弟、通称を信吾。陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。

兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ。

文部卿(第3代)陸軍卿(第3代)農商務卿(第2代)元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)内務大臣(第4・5・18代)貴族院議員を歴任した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井上良馨(1845年~1929年)

 

 

薩英戦争、戊辰戦争に参加。明治維新後、海軍士官となる。明治8年(1875)江華島事件の時の雲揚艦長。その後累進し、軍務局長、常備艦隊司令長官、海軍参謀部長、横須賀鎮守府司令長官等を歴任。34年海軍大将、40年子爵、44年元帥。

              

 

 

 

                                                

東郷平八郎(1847年~1934年)

    

明治38年、ロシアは日本海軍に対抗するため海軍を東洋に回航させました。
5月27日、38隻のバルチック艦隊は東郷の予感通り対馬海峡に現われました。
いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号を旗艦三笠に掲げました。

東郷は丁字戦法という捨て身の戦法でロシア艦隊を驚嘆・狼狽させました。

砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は艦橋に立って微動だにせず指揮を執り続けました。日本海軍はロシア艦隊19隻を沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。しかし日本海軍は1隻も失うことがありませんでした。これほど完璧なる海戦は世界の海戦史上ありませんでした。

 

 

 

このニュースは瞬く間に世界に伝わり、東郷は世界の英雄と賞賛されました。トルコのトーゴービール・トウゴー通り、フィンランドなど多くの国の教科書に東郷の英雄振りが記載されています。

 

 

アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督と東郷元帥

 

太平洋戦争中「出て来い、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」日本でよく歌われたという。日本帝国海軍と戦った敵将、アメリカ太平洋艦隊司令長官である。このニミッツ提督に日本海軍は敗れました。

     

 

 

 

 

 

     ニミッツ提督     1945年9月2日、戦艦「ミズーリ号」で米国代表として降伏調

              印に署名をするニミッツ。左にマッカーサー陸軍元帥

 

このニミッツ提督が師と仰いでいたのは東郷平八郎元帥でした。
日露戦争の直後、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。

ニミッツは大戦後に次のように語りました。「私は海軍士官候補生の時、私の前を通った
偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました」


そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。東郷は私の師です。あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢治三郎中将の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で日本の艦隊を破ったのです。

 

戦後、ニミッツは日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、荒れ放題になっていることを聞き深く心を痛めました。三笠は日本の運命を救った船として永久に記念すべく、
大正15年以来、横須賀に保存されていました。

 

ところが第2次大戦後には東郷元帥までが軍国日本の悪しき象徴とされました。
そして東郷元帥の乗艦した三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。
大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。
艦内では米兵相手の営業が行われ、東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てました。敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人は奢りに陥っていました。

 

ニミッツは嘆き悲しみました。彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、
これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。また日本国内にも反省が起こり、
昭和35年にようやく三笠は復元されました。その際、ニミッツは彼の写真と共に次の言葉を送りました。

「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために
協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。

東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」

 

大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。
昭和39年、ニミッツは東郷神社が再建されることを聞くと、自分の写真と共に祝賀のメッセージを寄せて喜びを表しました。

 

「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」

 

ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは英雄ニミッツの功績を記念して「ニミッツ・センター」の設立が計画されました。その時センターのハーバード理事長は「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」と協力を要請してきました。日本側は喜んでこれに応じました。そして資料のほか平和庭園と名付けた日本庭園を贈りました。こうしてニミッツセンターは日米を代表する英雄を記念する施設となったのです。

 

 

アメリカ合衆国が航空母艦は第二次世界大戦以降戦艦に替わる海軍の象徴であると同時に外交力の象徴であり、その名前に人名がつくのは基本的に大統領だけであるが、アメリカ海軍史上最も光輝ある名を持つ「エンタープライズ」さえ凌ぐ巨大空母に「ニミッツ」と名付けて生前の功績に報いた。

 

 

 ニミッツ級航空母艦

治維新後、東郷平八郎は、英国へ留学することを希望します。この留学を斡旋してくれたのが西郷隆盛でした。しかし、西郷隆盛はその後、西南戦争で多くの仲間と共に亡くなります。西郷を信奉していた東郷は留学していなければ間違いなくこの西南戦争に参加していたことになりますので、もしかするとここで戦死していたかもしれません。
東郷平八郎自身も「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下で戦っていただろう。」と語っています。

                                                                              

山本権兵衛(1852年~1933年)(海軍大将。海軍大臣、内閣総理大臣)

 

東郷平八郎を常備艦隊司令長官に任命する

 

薩摩藩士を経て海軍軍人となり、日露戦争においては海軍大臣として日本海海戦を勝利に導いています。大国ロシアの南下政策によって日本に危機が迫る中、山本権兵衛は「ロシア海軍に必ず勝つ」という一点を目標に、海軍の大改革を行いました。

 

東郷平八郎といえば日露戦争で有名な連合艦隊司令長官ですが、彼をその役職に付けたのが、海軍大臣山本権兵衛でした。明治天皇に奏上した理由ですが『東郷平八郎という男は運の良い男です』だったとか。

東郷平八郎を常備艦隊司令長官にするには、それまでの常備艦隊司令長官「日高壮之丞」を更迭することであった。日高は薩摩生まれで、戊辰戦争には山本権兵衛とともに従軍した。当時権兵衛とは仲がよく、東京に出てきて、一緒に相撲とりになろうとしたほどの仲である。

日高にすれば開戦を前にやめさせられるばかりか、その後任者が東郷であるということで、二重の侮辱を感じた。日高は冷静さを失って、悔しさのあまり、腰に帯びている短剣をいきなり抜き、「権兵衛、俺はなにも言わぬ。この短剣で俺を刺し殺してくれ」と、叫んだ。

権兵衛は「戦国時代の英雄豪傑という役割ならお前のほうがはるかに適任だろうが、近代国家の軍隊の総指揮官はそうはいかない。東郷を選んだのはそういうことだ。わしはお前には変わらぬ友情をもっている。しかし個人の友情を、国家の大事に代えることはできない」日高はうなずきはじめ、やがて涙をうかべ、わしがわるかった、そういう理由だとすれば怒るべき筋合はない、あやまる、といって頭をさげた。辞めるほうも、辞めさせられるほうも命がけだった。辞めさせる側は無私であった。

戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、加治屋町の大先輩だった西郷隆盛を訪ねています。西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書いてくれました。紹介状を胸に、権兵衛は東京へ行き、勝海舟を訪ねました。

海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を習いました。そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入りました。その後、ドイツに留学し、モンツ艦長の感化を受けました。権兵衛がモンツから学んだ、もうひとつの大切なことといえば、それは妻への敬意です。妻のトキが、権兵衛の乗る軍艦を見学しに来た時のこと、見学が終ってボートから桟橋に移るとき、権兵衛は自らの手で、トキの履き物を彼女の足元にそろえて置いたのです。

そもそも妻を軍艦に案内することがまずあり得ないことでしたし、男性が女性の履き物をそろえるなんて、当時の習慣では考えられないことでした。実際、権兵衛はほかの将兵の冷笑をかっています。「男としてみっともない!」というわけです。
しかし権兵衛は、まったく意に介しません。「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」
彼はこう言ってはばからなかったそうです。
 権兵衛とトキとの出会いは、権兵衛の海軍兵学校時代にさかのぼります。
トキは新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られた身でした。トキの身の上に同情した権兵衛は、仲間に協力してもらい、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして足抜けさせてしまいました。そして、知り合いの下宿にかくまい、ドイツ艦「ヴィネタ」での10カ月間にわたる航海の後に結婚しました。

正式に結婚するにあたって、山本は登喜子に七か条の誓約書を書きました。
「家の中のことは妻に任せるから、日頃からいざという時のために夫婦仲良くしよう」というものです。当時の、お偉いさんは女遊びをして一人前という風潮がある中、登喜子にとってこれほど心強い一文はなかったでしょう。故郷から遠く離され、すぐに頼れるような親族もない状況で、唯一の味方に心の底から誠意を表されたのですから。山本は、ほぼ教育と無縁の生涯を送ってきたであろう登喜子のために、わざわざふりがなを書いてまで自分の意志を伝えているのです。これでついていかない妻はいないでしょう。

昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳の生涯を閉じました。
その八カ月前には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)が亡くなっています。
登喜子は、目からポロポロと涙を流して夫の手を握り返したそうです。
その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。
登喜子がいよいよ最期というとき、権兵衛は妻の手を握って言葉をかけました。
「お互い苦労してきたなぁ。だがな、私はこれまで何一つ曲がったことをした覚えはない。安心して行ってくれ。いずれ遠からず、後を追っていくからな」

権兵衛のトキへの愛と敬意は、終生変わることがなかったといわれています。

自分への厳しさと、弱い者をいたわる優しい心をあわせもち、一人の女性を愛し続け、尊敬してきた、そういう権兵

 

衛の人となりが、周りの人を動かし、ひいては歴史を動かしていったのだと思います。国も家族、社会も組織も家族です。

西南戦争の前に山本は隆盛の真意を確かめようと、東京の兵学校を一時休んでまで鹿児島に会いに行っています。場合によってはそこで西南戦争に加わったでしょうが、隆盛から「これからの日本には必ず海軍が必要になるから、今、学生の君たちは大いに学ばなくてはならない」と諭されました。東京に帰って学問に励むことにしました。

また、西南戦争からしばらく経った後、弟である従道に

「なぜ兄に賛同しなかったのか」

と迫ると従道は「兄弟揃って帝に背いては、他者への影響が大きすぎる」

「兄の考えに反対するために東京へ残ったわけではない」と理由を話しました。

従道には従道の考え方があり、保身に走ったわけではないということを理解した山本は、従道と互いに信頼し合うようになっていきます。その後、山本が海軍の改革を行う際も、大臣である従道が「責任は取るから好きにやれ」と全面的に後押ししてくれました。


「マッカーサー回想録」(朝日新聞社・昭和36年)

「私は大山、黒木、乃木、東郷など偉大な司令官たちに全部会った。そして日本兵の大胆さと勇気、天皇への殆ど狂信的な信頼と尊敬に永久に消えることのない感銘を受けた」と書かれているそうです。それほどまでにマッカーサーは大山のみならず、日本の将軍たちに敬意を払っていたということが解ると思います。

 

日露戦争を勝利に導いた指導者たちはほとんど加治屋町「ヒーローズ・クォーター」出身者であった。

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