不世出の英雄 西郷隆盛


西郷隆盛は不世出の英雄なり、予かって之を論じて言へることあり、曰く、『陛下は天授、人力の能く及ぶところに非ず』・・『天皇陛下は天から授かったものであり、人の力ではどうにもならない』その他に誰かと言えば、明治の天地、西郷隆盛ただ一人である。普通の人が、豪傑、偉そうに見えるのは大体、事業が成功して名前が売れてからであるが、西郷だけはそうではない。 ● 島津斉彬は、門閥にこだわらず多くの家来の中から身分の低 い西郷を重用した。 ● 藩内の健児幼い時から西郷を畏れる。 ● 薩摩を出て京都や江戸に出ると全国の志士達が皆西郷を敬う。 ● 水戸の藤田東湖は、倣岸ごうがんでめったに人を褒めないが、西郷を一目見て惚れた。

豊後の小河一敏、 有志の士なり、文久の初、西郷と合った事を日記に 書いて『始めて西郷に面会した時、その威風堂々いふうどうどう、誰にもまねが出来ない胆略たんりゃく、このような人が今の世にいるとは思われない』と言った。 石見の福羽美靜子爵もまた 立派な人だが、初めて西郷、大久保を見たときの感想を私に語りて曰く、『美靜の千言よりも、大久保の十言を行 なうべきで、大久保の十言よりも西郷の一言を行なうべき』と思ったとのこと。 慶應の末、 幕府の規則きそく頽廃たいはいしたと言っても、尚300年、15代将軍の威光あり、勤皇の公卿達から草莽そうもうの志士まで幕府が倒れるとは信じられず、このことで朝廷密かに西郷、大久保、小松、木戸、広沢等を呼んでその意見を聞く。 ● 西郷は、『勝算間違いなし、ただ天皇の決断を待つのみ』 大久保達は、『如何なる勝算があるのか』と心配する。 西郷曰く、『我々仲間は長年勤皇を唱え国のために頑張ってきたのは今日の為ではないか、今勅問いまちょくもんに対して、天皇の決断を求めずして何をするのか』

明治維新の回天の大業は実にこの一言で決まったのである。その他、廃藩置県の件も木戸が提案したとしても、西郷の決断を待って始めて決定した事は事は、誰もが知っている事である。

南洲逝きて茲に34年 即ち南洲の意気を学び、数年談論しその語を集めてこれを本にすると、南洲が恍々と我が目の前にいるようだ。南洲が生き返る事を其れ庶幾しょき(こい願う)す可き歟か、噫ああ 後の南洲其れ庶幾しょきす可き也。

明治43年『日南学人』

島津斉彬  薩摩藩第28代藩主、幕末一の名君、松平慶永、勝海舟も「偉い人だったよ」と語る。

藤田東湖  幕末の水戸学者・水戸藩士。広く全国の有志と交わって志士の間に信望を集めた。安政の大地震で江戸小石川藩邸官舎で圧死。

小河一敏  幕末勤皇の志士、慶応四年、大阪府から独立した堺県の初代知事に就任。大和川の洪水の際には独断で県民の救済につとめ、土木事業を起こす。また、堺県内に限って通用する小紙幣を発行して県民の便宜をはかるなど、公平至誠の精神で県政にあたった人。

 『明治11年5月、大久保利通が紀尾井町で暗殺された事を聞いた小河は自宅で来客と話をしていた。しばらく息を忘れたように考えているふうであったが、やがて、―アア、天トイウモノハアルカ。といって長嘆した』   司馬遼太郎『歳月』より

福羽美静  幕末明治初期の国学者・神祇官僚。石州津和野藩士 元老院議員、貴族院議員、子爵、著書には『古事記神代系図』『人事百話』『国民の本義』その他多数。

明治31年12月18日上野公園で西郷隆盛銅像の除幕式において祝歌

西郷隆盛英士の銅像のまへに 国のためつくし 国のためつくし猶々なほなほと おもひし君が心尊こころとおとさ


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