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西南戦争と三菱

西南戦争と三菱

薩摩の強さは近代銃の製造工場を導入、稼動させていた事実,明治9年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている[1]。

陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。

火薬庫襲撃事件

連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。*この弾薬略奪事件を演出したのは大久保利通、大山巌ら薩摩藩近代派の、西郷一派への挑発でもあった、旧武士階層の体制的崩壊を作り出すこと

西南戦争の戦費と不換紙幣の発行

さらに西南戦争の戦費が重くのしかかる。殖産興業政策を推し進めてきた明治政府はこれまで積極財政を取っていたため、毎年おおよそ4000万円~5000万円の歳入に対して5000万円~6000万円の歳出という赤字財政を続けており、さらに戦費は4200万円の不換紙幣を発行することで賄っていた。そのため明治十一年以降紙幣価値の暴落、物価の急騰という急激なインフレに見舞われることになった。

明治維新の最初の最大の政商、三菱商会

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。

*ロンドンロスチャイルドが英仏戦争で、英軍敗北のウワサを流し、ソノ前に、英国債を買占め、その直後に英軍大勝の報が流され、買い占めた英国債で暴利を得たこととヨク似ている.

*竜馬暗殺に弥太郎は深く関係していた、巨額の暗殺資金の一部を負担した?この暗殺実行責任者が田中忠顕であり、田中と弥太郎の関係はこれから田中が死去するまで、三菱首脳が引き継ぐことになる、*以上は、「日本の本当の黒幕」参照、

 三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。

農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。

 征韓論をめぐる政争の結果、西郷隆盛は、明治6(1873)年、参議を辞し鹿児島に戻った。

西郷たちが各地に組織した私学校は若い不平士族の拠り所になった。鹿児島県は地租改正も秩禄処分(ちつろくしょぶん)(注1)も行わないなど中央政府に反抗、あたかも独立国 のようだった。一方、高知では板垣退助らが自由民権運動を展開、反政府活動を活発化させていた。

明治7年以降、佐賀の乱、神風連(じんぷうれん)の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平士族の反乱が各地で勃発したが、とどめは西南戦争である。

10年2月、西郷が私学校の生徒1万5千人を率いて鹿児島を発った。めざすは熊本鎮台。九州各地の不平士族も合流し、総勢4万余。政府はただちに有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせることとした。

政府の助成を受けている三菱に対してはただちに社船の徴用が命じられた。兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送が勝敗を決するのだ。

「わが三菱の真価が問われる時が来た。…怯むな…」。彌太郎は幹部社員を集めて檄を飛ばした。「わしは東京で政府との折衝にあたる。石川、お前は大阪で兵站と配船を指揮せよ。川田、お前は長崎で、だ。彌之助は配船の現場に立て…」

政府軍の輸送船団

三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込んだ。全社をあげての取り組みは、総勢7万にのぼる政府軍の円滑な作戦展開を支えた。

(左)「東海丸徴されて西南征討軍用船となる」明治10年2月15日政府へと徴用された東海丸は約2ヶ月にわたり品川、横浜、神戸への軍事輸送に従事した。

(右)「官命あり、上海航船西京丸特に解纜の期を早め兵を載せて西航す」明治10年2月19日 急な命令により、出航を1日早めたり停泊の時間を短縮するなど当時の慌しい様子が記されている。 (三菱史料館所蔵)

 西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂で敗走、宮崎県の各地を転戦して、ついに鹿児島の城山で最期を迎える。戦死者は双方あわせて1万人以上。まさに内戦だった。

 意気盛んだった西郷の軍を、徴兵制軍隊が制圧した。もはや軍事力は士族の独占ではない。近代的な装備と編成、それに三菱船団の機動力がそれを実現したのだった。

 この戦中、明治天皇は京都に赴き戦況の報告を受けた。7月末には政府軍の勝利が決定的になったので、神戸から三菱の社船広島丸に乗って東京に戻った。この時の明治天皇の御製    (「千代の光」所収)—

「あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山」

後に三菱には金一封が下賜され、社長の彌太郎は銀杯ほか、航海のお供をした彌之助と石川には白縮(しろちり)1匹(注2)ほかを賜った。

この戦いでの彌太郎の立場は微妙だった。立志社を興した板垣は間もなく東京に戻ったが、高知の民権運動は活発化していた。即刻民選議院の設立が認められぬなら、西郷に呼応して武器をとるべしとの強硬意見も強かった。三菱の船を高知にまわせと迫る者もいた。幸か不幸か、鹿児島士族との連携がうまくいかず高知の民権派の蜂起は不発に終わったのだが、同郷の彌太郎としては辛いところだった。

西南戦争における軍事輸送は、国家の信頼を勝ち得るとともに、三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築いた。「国家とともにある」との信念を確固たるものにした三菱は、先に無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納した。のち、更に買い増して所有船61隻となり、わが国の汽船総トン数の73%を占めるにいたった。

https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro16.html


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