「世界は一つ」
西郷隆盛に学ぶ
「敬天愛人フォーラム21」
平成28年の西郷隆盛生誕祭ダイジェスト映像をご覧ください。
平成30年12月2日(日)
西郷隆盛銅像建立120年及び西鄕隆盛生誕(191才)祭
西郷隆盛銅像120年祭及び西郷隆盛生誕祭(191才)
上野公園西郷隆盛銅像前清掃
毎月:第2日曜日
時間:午前9時~10時
(その後、希望者でお茶会)
どなたでも参加できますので奮ってご参加お願いいたします。
西郷さんの教え
税金を少なくして、国民生活を豊かにすることこそ、国力を高めることになる。無理やり国民から税金を取り立てるから、人々 は苦しみ、耐えかねて、税の不当な取り立てから逃れようと、自然に嘘いつわりを言って、お互いに騙し合い、役人と一般国民が敵対して、終いには、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。
西郷の墓地大久保の法要「待った!」
2018年5月6日計画 大久保利通の慰霊に反感
南洲墓地内に建立された供養塔と石碑
南洲墓地、原口会長不参加へ
NHK大河ドラマ「西郷どん」放送で盛り上がる鹿児島県内に、わだかまりが残りそうな事態が起きている。西南之役官軍薩軍恩讐=おんしゅう=を越えての会(原口泉会長)は来月6日、鹿児島市の南洲墓地で戦没者の回向=えこう=(読経などで死者の冥福を祈る)を行う。同会は昨年9月に同地で石碑の除幕式を行っており、事務局は「西南戦争は国内最大の内戦で、日本人同士が戦った悲劇。当日は敵味方なく戦没者の冥福を祈りたい」とコメント。これに対し一部から、大久保利通を慰霊することに反感が出ており、原口会長は回向に不参加を表明した。
同会は市内の天台宗大雄山「南泉院」の宮下亮善住職(71)が事務局となり、2016年に南洲墓地内に戦没者を慰霊する石碑などを建立する計画を構想。有志らの寄付で石碑と供養塔を建立し、西南戦争から140年の17年9月23日に大久保利通と西郷隆盛のひ孫が参列して除幕式を行っていた。
建立された石碑には、戦没者を敵味方の区別なく供養した島津家中興の祖・島津忠良(日新公)の博愛慈悲の精神を示すいろは歌「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも」と建立由来などが刻まれている。
同会は18年が明治維新150年にあたることから、昨年の除幕式に続き5月6日に西南戦争の戦没者を慰霊するイベントを企画。18年が大久保利通の没140年にもなるということで、当初「大久保利通公没140年法楽および薩摩琵琶奉納」を計画していた。
この計画に対して事務局に、県外などから南洲墓地での慰霊行事に反対する意見が寄せられたという。原口会長はこの事態を受けて、同日の南洲墓地での回向に参加せず隣接する西郷南洲顕彰館での自身の講演内容も一部変更するとした。事務局は行事名から「大久保利通公没140年法楽」を外すなどしての実施としている。
宮下さんは、「自分たちは恨みつらみで活動しているのではない。西郷と大久保は二人とも鹿児島の偉人。ただ趣旨を理解してもらえないのは残念。見解の違いは仕方がないだろう」と冷静な構え。原口会長は、「回向に反対する意見もあり、意をくんで墓地での供養には不参加とさせてもらう」と語った。
(奄美新聞「社西南戦争戦没者冥福祈る行事」より抜粋)
西郷隆盛 (1827~1877)
文政10年(1827)12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町山之口馬場で生まれました。幼名は小吉、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助で通しました。南洲はその雅号です。西郷家の家格は「御小姓与」で、薩摩藩の士分では、下から二番目の身分である。少年の時、けんかで右腕を負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになったため、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと伝えられています。
16才の時、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。藩の郡方は、当時の税である年貢の徴収等も行っていました。西郷が郡方に任命された時の責任者・郡奉行は、迫田太次右衛門利済で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けたと伝えられています。ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に、 「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」 と書いて、郡奉行を辞職しました。虫とは「役人」のことを意味し、いつふし草とは重税に苦しむ「農民」のことを指しています。つまり、「役人が農民に過剰な税を課し、いじめることは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を暗に風刺し、迫田は郡奉行を辞職したのです。西郷はこの迫田から農政に関することを一から学びました。この迫田から得た知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬に見出される要因となるのです。
嘉永4(1851)年2月2日、斉彬は島津家28代当主の薩摩藩主に就任すると、安政元(1854)年、西郷は郡方書役助から「中御小姓、定御供、江戸詰」を命ぜられ、斉彬に付き従って、江戸の藩邸に勤務することとなった西郷は、斉彬より庭方役を拝命しました。
斉彬の厚い薫陶を受けた西郷は、当時、天下に名を馳せていた水戸藩の藤田東湖等、志の高い人物たちと交流を持つことになり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていきました。西郷は、斉彬によって天下のことを知り、そして世に送り出されたと言えます。西郷がそのように朝廷工作に忙しく追われている最中、鹿児島城下の天保山で兵を調練中であった斉彬が、安政5(1858)年7月16日、突然急逝したのです。
「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない……」
西郷は国許薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを覚悟しました。しかしながら、西郷は、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照にそのことを諌められました。安政の大獄が始まり井伊大老の恐怖政治により、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた月照も、その身が危険となりました。
西郷は帰国するや否や、藩政府の要人たちに対し、月照の保護を熱心に求めました。藩政府は西郷に対し、はるばる薩摩までやって来た月照を無情にも藩外に追放するように命じたのです。
しかし、西郷は薩摩藩士として、藩の命令に背くわけにはいきません。
この事態に絶望した西郷と月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じました。 安政5年(1858) 11月16日、西郷吉之助30歳のことでした。
冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。幕府の目から逃れさせるため、西郷も共に死んだと幕府に届けて、菊地源吾と名前を変えて、安政6年(1859)1月、奄美大島へ謫居されました。
西郷は、住居のあった龍郷一の名家である龍家の一族の娘・愛加那と結婚し、菊次郎、菊子をもうけ、三年もの間、片時の幸せな新婚生活を過ごすことになるのですが、激動の時代は、まだ西郷のことを必要としていました。
召喚命令につき、文久2年(1862)2月11日、西郷は約三年ぶりに本土・鹿児島の地に戻ることになったのですが、「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」という島津久光の命令を無視し、勝手に行動した西郷に激怒しました。そしてその後、兵庫に入った久光は、ついに西郷の捕縛命令をうけ、薩摩へと送還された西郷は、藩から徳之島への遠島を申し付けられました。
その後、西郷は徳之島から沖永良部島への遠島替えを命じられ、沖永良部島での生活は、峻烈を極めました。昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられました。
沖永良部島と言えば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことが窺い知れます。西郷は、その獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口にせず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと伝えられています。
このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、次第に体力も限界へと近づき、死を覚悟しました。そして次の詩を残しています。
獄中感有り
朝に恩遇を蒙り 夕べに焚坑せらる。人世)の浮沈 晦明に似たり、縦い光を巡らさざるも 葵は日に向かう、若)し運を開くなきも意は誠を推(お)す。洛陽の知己 皆鬼となり 南與の俘囚 独(ひと)り生を盗む。生死何ぞ疑わん 天の付与なるを、願わくは魂魄を留めて 皇城を護(まも)らん
敬天愛人発祥の地の碑
牢屋
牢屋の中で端座する南州翁
西郷は厳しい逆境の中から天の思想「敬天愛人」を会得し、島の若者たちを指導、地域の発展のための未来を提案した。
その頃、薩摩藩では薩英戦争等で政治的に行き詰まって薩摩藩内に、「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という西郷赦免運動が起こり始めました。
元冶元年(1864) 2月28日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。そして、西郷は席の暖まる暇もなく京都へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」に任命されました。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、諸藩応接係は外交官のような役職です。そして、この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。
元冶元(1864)年7月18日夜、長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門を中心に攻めかかりました。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となったのですが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。世に言う「蛤御門の変」とか「禁門の変」と言われているものです。
元冶元年(1864) 9月11日、大坂に幕臣勝海舟と面会する。
「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くような人物でした。最初はやっつけるつもりで会ったのですが、実際会ってみると、本当に頭が下がる思いになりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです」と西郷は勝の人物に惚れたようです。
その後の薩長同盟、王政復古、江戸城無血開城、廃藩置県、宮中の改革、学校制度の確立、警察制度、銀行制度創設、マリア・ルーズ号事件の解決、地租改正、陸軍創設等明治維新の回天の立役者として、近代国家の礎を築きましたが、明治10年、政府による度重なる挑発に私学校生徒たちが暴発して、やむなく西南戦争に発展し、故郷城山において自害して享年49歳の生涯を遂げられました。
福沢諭吉の証言
西南の役の近因は、刺客が先か、弾薬略奪が先か、水掛け論である。しかし遠因は、明らかに明治6年の政変である。福沢諭吉は、西南の役に際し、その正邪を識別し、密かに「丁丑口論」を綴ったが、その中で彼は、明治6年の政変で大久保らが、西郷を廟堂から退けた理由は、何一つとして筋が通らない。筋が通らないとすれば、薩軍は賊ではなくて、むしろ義軍であるという。
福沢の説によると、征韓論が決裂して西郷は桐野利秋以下の将卒数百名と故郷に帰った。この時、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹等は明らかに辞職でもなければ、免職でもない。多数の兵士も、正規の除隊の法に従ったものではなかった。彼らは連袂(れんぺい)して公然と東京を去ったが、政府に残る大臣諸侯は、いずれも制止することができず、黙認したのである。だからその状況は、あたかも陸軍大将が、兵隊を指揮して鹿児島に行くといってもよかった。
明治10年に西郷が東上しようとして、薩南の兵士が随行して行くというとき、中央政府がこれを討伐しようとしたのは間違っている。西郷も武力で争うつもりはなく、その先発隊にはくれぐれも、発砲しないよう申し含めておいた。発砲は熊本鎮台の方で仕掛けてきたのである。政府は頭から討伐するつもりで準備していた。これは、これまで薩摩人に対して、その権柄を与えて宥和してきたことから言えば、まさに表裏反復。明らかにペテンであるというのである。
丁丑口論
大山巌、西郷従道、東郷平八郎、山本権兵衛、黒木為楨、井上良馨等、日清、日露戦争に勝つことができた人達というのは、みな西郷の指導を受けた加治屋町の出身者であった。