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吉井 友実
(1828~1891)


通称、幸輔、文久11年(1828)2月生まれ。幼少から学を好み秀才といわれ、西郷、大久保等と提携し国事に関与する。安政3年大阪藩邸の留守居役となり諸国の志士と親交を持つ。文久2年、寺田屋事件の後、島津久光の後押で幕府改革の勅命を届けに行く。大原重徳に従い江戸城に談判を見守る。慶應2年薩長連合の推進につくし倒幕を進める。明治元年戊辰の役には北陸に出征勲功をたて大刀料300両を賜う。明治維新後、司法、民部、工部、宮内の各所の要職を歴任した。華族に列し伯爵を賜う。明治21年枢密顧問官。明治24年没。正二位。上野公園西郷隆盛銅像建立の提案者。

伊地知 正治

(1828~1886)

 

 3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれる。5尺(1・5メートル)足らずの短身のうえに、左眼はつぶれ、耳遠く、左足はびっこという身体障害者であったが幼少からものすごい頑張り屋で、嘉永3年合伝流の師家となった。文久2年島津久光は軍職の首班として藩兵の指揮を命じた。慶應4年正月、鳥羽伏見の戦いでは、西郷が総大将で伊地知が参謀であった。

 いざ戦となると新兵器ミニヘル銃を駆逐し、俗謡に、「伊地知正治とミニヘル銃は中にじり(聖)の筋がある」と詠われるほどの軍略を発揮した。

 西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に58歳で死去。明治20年(1887年)、「国家ニ勲功アル者」として生前に遡って「伯爵」を授爵された。激烈な性格で頭脳は優れていたというが奇人としての逸話も多い。

大久保​ 利通

(1830~1878)
 

 西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。大久保はプロイセン(ドイツ)を目標とした国家を目指していたといわれる。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。

明治11年(1878)5月14日、石川県士族の島田一郎より紀尾井坂にて殺害された(紀尾井坂の変)。享年47才。

田 新八

(1836~1877)

幼年時代から西郷を兄と敬った。文久2年(1862)6月久光の怒りにふれ西郷は徳之島に流され、村田は喜界島に流された。

1864年西郷と一緒に鹿児島に帰国。明治4年、岩倉使節団一行で外遊したが明治7年帰国してみると、朝鮮問題で西郷が帰郷していた。大久保に止められたが西郷さんの意見も聞かなければと振り切り帰郷した。その後私学校で子弟の教育にあたった。挙兵には消極的であったが、西郷との絆は深く、城山最後の9月24日、西郷の死を見届けてから自害した。

「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、我らの責任が掛かっているもんと心得もす」

 村田新八は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通等欧米使節団に加わり、欧米の軍情を視察して帰った。薩摩軍中の親知識派であった。幹部の会合に南洲翁は必ず『村田在りや』と問うたと言う。器材衆に秀でて翁の重んずる所であった。

篠原 国幹

(1837~1877)

千葉県習志野市の地名の由来

    明治6年6月、陸軍大将西郷隆盛と共に、篠原は陸軍少将として千葉県大和田原で行なわれた明治天皇観覧の陸軍大演習に参加しました。暴風で天皇自らも全身ずぶ濡れになる中、篠原が指揮を取り、見事な奮戦ぶりに感激した天皇が、篠原に習えという意味から「今日からこの地を習野原と名づけ、躁練場と定める」と褒め称えたのが習志野の地名の由来といわれています。

​ 篠原国幹は恐るべき不言実行の人で、眼を以って唇に代え、腕を以って舌に変えた。しかも態度自ら禪機に合し、私学校を監督して薩摩隼人の英気を鼓舞作興した。南洲翁の股肱中実行力の敢為なるに於いて抜群であった。

 

 

 

有雨有烟又有雲 雨あり烟あり又雲あり 中原万里乱紛々 中原万里紛々と乱れり 腰間秋刀令方試 腰間の秋水まさに試さん 掃尽妖邪謁国君 妖邪を掃尽して国君にまみえん 国幹

 

 

(解説)  

 国幹は言葉少なく禅機を体した人物といわれた。雨あり雲ありを解するに、この世や世界を大きく捉えている。維新は成ったが、日本の現状は治まったといえず紛々と乱れている。一たび風雲が起きたときには、腰間の曇りなき刀を抜き、妖邪を薙ぎ尽して国君に見えるであろう。なんとも篠原国幹の面目が躍如している詩である。この書は運筆の強弱がはっきりしており、国幹の気性が感ぜられる。

黒木 為楨

(1844~1923)

陸軍大将。伯爵。

   

クロパトキンに花瓶を返す

   日露戦争開戦当初、ロシアが必ず勝つと思っていた韓国の某官吏はクロパトキンへの贈答品として花瓶を用意し、ザスリッチに預けた。しかし、ザスリッチが鳳凰城から退却する際に花瓶を置き忘れたため、後に入城した黒木軍に接収されてしまった。黒木はこの花瓶がクロパトキンへの贈答品であることを知ると、書面を添えてクロパトキンの司令部に送り届けさせた。その文中には、「願わくば友情の花、この花瓶中に咲いて爛漫たらんことを」という一文があったという。数日後、花瓶を受け取ったクロパトキンから黒木宛に礼状が届いた。そこには「日本人は平時余が漫遊せし時も、友誼の至らぬ事なきを示せしが、今戦時となるも、敵として頗る美しき精神を有せる者なることを示す。余はかかる敵と戦い、たとえ敗北しても決して恥辱に非ずと信ず」と書かれていた。

山 巌

(1842~1916)

  幼名は岩次郎。通称は弥助。階級は元帥陸軍大将。栄典(位階勲等および爵位)は従一位大勲位功一級公爵。大警視(第2代)、陸軍大臣(初・2・3・4・6・7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老、貴族院議員を歴任した。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたる。西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。 

 西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。

​ ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

西郷 従道

(1843〜1902)

  西郷吉兵衛の三男。西郷隆盛の弟、通称を信吾。陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。

   兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ。

   文部卿(第3代)陸軍卿(第3代)農商務卿(第2代)元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)内務大臣(第4・5・18代)貴族院議員を歴任した。

井上​ 

(1845年~1929年)

 薩英戦争、戊辰戦争に参加。明治維新後、海軍士官となる。明治8年(1875)江華島事件の時の雲揚艦長。その後累進し、軍務局長、常備艦隊司令長官、海軍参謀部長、横須賀鎮守府司令長官等を歴任。34年海軍大将、40年子爵、44年元帥。

東郷​ 八郎

(1847年~1934年)

 明治38年、ロシアは日本海軍に対抗するため海軍を東洋に回航させました。 5月27日、38隻のバルチック艦隊は東郷の予感通り対馬海峡に現れました。 いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号を旗艦三笠に掲げました。

 東郷は丁字戦法という捨て身の戦法でロシア艦隊を驚嘆・狼狽させました。

   砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は艦橋に立って微動だにせず指揮を執り続けました。日本海軍はロシア艦隊19隻を沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。しかし日本海軍は1隻も失うことがありませんでした。これほど完璧なる海戦は世界の海戦史上ありませんでした。

   このニュースは瞬く間に世界に伝わり、東郷は世界の英雄と賞賛されました。トルコのトーゴービール・トウゴー通り、フィンランドなど多くの国の教科書に東郷の英雄振りが記載されています。

桐野 利秋

 桐野利秋の人となり気宇宏濶人を待つに城府を設けず、武人らしき武人であった。士気一発すれば三軍の将卒も仰ぎ見ることを得なかったといふ。十年の役南洲翁は一切の軍事を挙げて桐野に一任した。

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両虎相争非善謀 

両虎相争うは善謀に非ず

一刀一扇却胎羞 一刀一扇を却(ひく)は羞の胎(もと) 何人当日知兵在 何人や当日の兵在るを知る 唾手収来六十州 唾手して収め来る六十州    

利秋

 

解説)   

 この詩は利秋の真の武人である思いを顕している。西郷翁を信じ、全幅の信頼を置き、殉じた心情があふれている。両虎は西郷と大久保とを表していると考えてもよいが、政府軍と薩軍と解釈してもよいとおもう。両者はかりごとを超えて、大きな時代の流れの中でぶつかりあっているのである。一刀を抜き一扇を返したからには、引く事は武人の心情に適わぬところであろう。何人が当日の兵の思いを受け取ることが出来ようか。自分は手に唾して日本の改革を西郷さんの後についてやってきたのだ。 写真で見る限りでは、書体はのびのびとして留まるところが無い。気宇宏濶の人と評しているが、まさにその通りの人物であったであろう。

永山 彌一郎

 永山彌一郎は夙に大陸経営論を唱え、最初の北海道屯田兵長官であった。人物剛直にして清廉、御船に戦死するや、地人将軍の英霊、吾が郷の守護神となれりと、愛慕されたと言う。

別府 晋介

​ 別府晋介は南洲翁に親愛され、翁「晋どん、ここらでよか」と言われ、泣きながら翁を介錯した。天資俊爽にして兼直、且つ同情と犠牲の念あつく身を殺して仁をなすの君子人であった。翁は常に彼の性格を愛し、豫(あらかじ)めその身を託せんと期したと言う。

逸見十郎太

 逸見十郎太は魁偉寧猛、その面貌(めんぼう)の如くであった。彼の鬚髯(かみひげ)皆赤く音吐雷の如くであったと言う。最期まで勇戦して、人皆彼の部下たらんことを希み、争って彼に従ったと言う。

 昭和2年に発刊された西郷画集の中で「壮気漲る薩軍の将星」として6名の人物を挙げている。南洲翁没後数十年たち、維新から西南の役を経て評価も定まった歴史的人物に焦点を当てているが、大正期の人達の認識を学ばなければならないとおもう。  

 現在、西郷さん初め桐野利秋等の人物評価が、司馬遼太郎の小説などの影響により歪曲されて解釈されていることが残念である。画集にある詩の解説を添えて、将星の人物を考えてみたいとおもう。

 

 

西郷南洲翁大畫集 解説 敬天愛人フォーラム21

世話役 白石 念舟

アメリカ太平洋艦隊司令長官

ニミッツ提督と東郷元帥

太平洋戦争中「出て来い、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」日本でよく歌われたという。日本帝国海軍と戦った敵将、アメリカ太平洋艦隊司令長官である。このニミッツ提督に日本海軍は敗れました。

ニミッツ提督     

 

 1945年9月2日、戦艦「ミズーリ号」で米国代表として降伏調印に署名をするニミッツ。左にマッカーサー陸軍元帥。

 

   このニミッツ提督が師と仰いでいたのは東郷平八郎元帥でした。 日露戦争の直後、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。

 ニミッツは大戦後に次のように語りました。「私は海軍士官候補生の時、私の前を通った 偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました」

   そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。東郷は私の師です。あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢治三郎中将の艦隊を待ちうけていました。そして私は勝ったのです。東郷が編み出した戦法で日本の艦隊を破ったのです。

戦後、ニミッツは日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、荒れ放題になっていることを聞き深く心を痛めました。三笠は日本の運命を救った船として永久に記念すべく、 大正15年以来、横須賀に保存されていました。

   ところが第2次大戦後には東郷元帥までが軍国日本の悪しき象徴とされました。 そして東郷元帥の乗艦した三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。 大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。 艦内では米兵相手の営業が行われ、東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てました。

   敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人は奢りに陥っていました。

   ニミッツは嘆き悲しみました。彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、 これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。また日本国内にも反省が起こり、 昭和35年にようやく三笠は復元されました。その際、ニミッツは彼の写真と共に次の言葉を送りました。

   「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ニミッツ」

   大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。 昭和39年、ニミッツは東郷神社が再建されることを聞くと、自分の写真と共に祝賀のメッセージを寄せて喜びを表しました。

   「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」

   ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは英雄ニミッツの功績を記念して「ニミッツ・センター」の設立が計画されました。その時センターのハーバード理事長は「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、日本の姿も知らせたいと思います」と協力を要請してきました。日本側は喜んでこれに応じました。そして資料のほか平和庭園と名付けた日本庭園を贈りました。こうしてニミッツセンターは日米を代表する英雄を記念する施設となったのです。

   アメリカ合衆国が航空母艦は第二次世界大戦以降戦艦に替わる海軍の象徴であると同時に外交力の象徴であり、その名前に人名がつくのは基本的に大統領だけであるが、アメリカ海軍史上最も光輝ある名を持つ「エンタープライズ」さえ凌ぐ巨大空母に「ニミッツ」と名付けて生前の功績に報いた。

 

         

ニミッツ級航空母艦

 明治維新後、東郷平八郎は、英国へ留学することを希望します。この留学を斡旋してくれたのが西郷隆盛でした。しかし、西郷隆盛はその後、西南戦争で多くの仲間と共に亡くなります。西郷を信奉していた東郷は留学していなければ間違いなくこの西南戦争に参加していたことになりますので、もしかすると、ここで戦死していたかもしれません。 東郷平八郎自身も「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下で戦っていただろう。」と語っています。

山本権兵衛(1852年~1933年)

(海軍大将。海軍大臣、内閣総理大臣)

東郷平八郎を常備艦隊司令長官に任命する。

 薩摩藩士を経て海軍軍人となり、日露戦争においては海軍大臣として日本海海戦を勝利に導いています。大国ロシアの南下政策によって日本に危機が迫る中、山本権兵衛は「ロシア海軍に必ず勝つ」という一点を目標に、海軍の大改革を行いました。

  東郷平八郎といえば日露戦争で有名な連合艦隊司令長官ですが、彼をその役職に付けたのが、海軍大臣山本権兵衛でした。明治天皇に奏上した理由ですが『東郷平八郎という男は運の良い男です』だったとか。

   東郷平八郎を常備艦隊司令長官にするには、それまでの常備艦隊司令長官「日高壮之丞」を更迭することであった。日高は薩摩生まれで、戊辰戦争には山本権兵衛とともに従軍した。当時権兵衛とは仲がよく、東京に出てきて、一緒に相撲とりになろうとしたほどの仲である。

 日高にすれば開戦を前にやめさせられるばかりか、その後任者が東郷であるということで、二重の侮辱を感じた。日高は冷静さを失って、悔しさのあまり、腰に帯びている短剣をいきなり抜き、「権兵衛、俺はなにも言わぬ。この短剣で俺を刺し殺してくれ」と、叫んだ。

   権兵衛は「戦国時代の英雄豪傑という役割ならお前のほうがはるかに適任だろうが、近代国家の軍隊の総指揮官はそうはいかない。東郷を選んだのはそういうことだ。わしはお前には変わらぬ友情をもっている。しかし個人の友情を、国家の大事に代えることはできない」日高はうなずきはじめ、やがて涙をうかべ、わしがわるかった、そういう理由だとすれば怒るべき筋合はない、あやまる、といって頭をさげた。辞めるほうも、辞めさせられるほうも命がけだった。辞めさせる側は無私であった。

 戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、加治屋町の大先輩だった西郷隆盛を訪ねています。西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書いてくれました。紹介状を胸に、権兵衛は東京へ行き、勝海舟を訪ねました。

   海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を習いました。そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入りました。その後、ドイツに留学し、モンツ艦長の感化を受けました。権兵衛がモンツから学んだもうひとつの大切なことといえば、それは妻への敬意です。妻のトキが、権兵衛の乗る軍艦を見学しに来た時のこと、見学が終わってボートから桟橋に移るとき、権兵衛は自らの手で、トキの履き物を彼女の足元にそろえて置いたのです。

   そもそも妻を軍艦に案内することがまずあり得ないことでしたし、男性が女性の履き物をそろえるなんて、当時の習慣では考えられないことでした。実際、権兵衛はほかの将兵の冷笑をかっています。「男としてみっともない!」というわけです。 しかし権兵衛は、まったく意に介しません。「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」 彼はこう言ってはばからなかったそうです。  

 権兵衛とトキとの出会いは、権兵衛の海軍兵学校時代にさかのぼります。トキは新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られた身でした。トキの身の上に同情した権兵衛は、仲間に協力してもらい、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして足抜けさせてしまいました。そして、知り合いの下宿にかくまい、ドイツ艦「ヴィネタ」での10カ月間にわたる航海の後に結婚しました。

   正式に結婚するにあたって、山本は登喜子に七か条の誓約書を書きました。 「家の中のことは妻に任せるから、日頃からいざという時のために夫婦仲良くしよう」というものです。当時の、お偉いさんは女遊びをして一人前という風潮がある中、登喜子にとってこれほど心強い一文はなかったでしょう。故郷から遠く離され、すぐに頼れるような親族もない状況で、唯一の味方に心の底から誠意を表されたのですから。山本は、ほぼ教育と無縁の生涯を送ってきたであろう登喜子のために、わざわざふりがなを書いてまで自分の意志を伝えているのです。これでついていかない妻はいないでしょう。

 昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳の生涯を閉じました。 その八カ月前には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)が亡くなっています。 登喜子は、目からポロポロと涙を流して夫の手を握り返したそうです。 その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。 登喜子がいよいよ最期というとき、権兵衛は妻の手を握って言葉をかけました。 「お互い苦労してきたなぁ。だがな、私はこれまで何一つ曲がったことをした覚えはない。安心して行ってくれ。いずれ遠からず、後を追っていくからな」

 権兵衛のトキへの愛と敬意は、終生変わることがなかったといわれています。

   自分への厳しさと、弱い者をいたわる優しい心をあわせもち、一人の女性を愛し続け、尊敬してきた、そういう権兵

衛の人となりが、周りの人を動かし、ひいては歴史を動かしていったのだと思います。国も家族、社会も組織も家族です。

   西南戦争の前に山本は隆盛の真意を確かめようと、東京の兵学校を一時休んでまで鹿児島に会いに行っています。場合によってはそこで西南戦争に加わったでしょうが、隆盛から「これからの日本には必ず海軍が必要になるから、今、学生の君たちは大いに学ばなくてはならない」と諭されました。東京に帰って学問に励むことにしました。

   また、西南戦争からしばらく経った後、弟である従道に

「なぜ兄に賛同しなかったのか」

と迫ると従道は「兄弟揃って帝に背いては、他者への影響が大きすぎる」

「兄の考えに反対するために東京へ残ったわけではない」と理由を話しました。

   従道には従道の考え方があり、保身に走ったわけではないということを理解した山本は、従道と互いに信頼し合うようになっていきます。その後、山本が海軍の改革を行う際も、大臣である従道が「責任は取るから好きにやれ」と全面的に後押ししてくれました。

「マッカーサー回想録」(朝日新聞社・昭和36年)

「私は大山、黒木、乃木、東郷など偉大な司令官たちに全部会った。そして日本兵の大胆さと勇気、天皇への殆ど狂信的な信頼と尊敬に永久に消えることのない感銘を受けた」と書かれているそうです。それほどまでにマッカーサーは大山のみならず、日本の将軍たちに敬意を払っていたということが分かると思います。

   日露戦争を勝利に導いた指導者たちはほとんど加治屋町「ヒーローズ・クォーター」出身者であった。

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