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 西郷留守内閣の功績(明治4年~6年)

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​ 岩倉使節団とは、明治4(1871)年11月12日から明治6(1873)年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

 

​ 西郷を首班とする留守内閣は、現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。

 この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官についた。勝海舟(海軍大輔)大久保一翁(東京府知事)山岡鉄舟(宮内侍従)大鳥圭介(大蔵小丞)等である。戊辰戦争の恭順であった勝・大久保・山岡はともかく、最後まで抵抗して箱館戦争の責任者の榎本武揚などは、長州派は殺してしまえとの号令であったが、西郷の一諾で死刑を免れた。なお長州派の猛烈な反対を排して、西郷は恩讐を超えて榎本らに活躍の場を与えた。

 

 この時代、旧幕臣も初めて自由にものが言えるようになり、うっせきした空気も次第にほぐれ、自由、改進の風潮が社会の傾向として、人々に浸透していたという。(福澤諭吉・時事大勢論)新聞・雑誌も相次いで創刊された。明治4年から5年にかけて創刊された新聞には、「日新真事誌」「新聞雑誌」「東京日日新聞」「郵便報知新聞」などがあり、地方では「大阪新聞」「京都新聞」「山梨日日新聞」「茨城新聞」「信飛新聞」「開花新聞」などがあった。

 以上のように、西郷を首班とする留守内閣は、明らかに民主的・進歩的であった。その根底には国家社会は道義・仁愛をもって成立すべしとする西郷の理念があった

​ 西郷が一切の発想者出ないとしても、実に、維新政府の基礎的眼目たる諸制度と、新政策のため、大いなる推進の主役であったことは否めない。

 

明治4年の太政官制度改革

 

    官吏は月給制に、神祇官が廃され三院制に明治4(1871)年の改革では、正院・左院・右院を配する三院制が導入されるが、それぞれの院は異なる役割を果たすことになる。正院には太政大臣、左大臣、右大臣、参議が置かれ、天皇陛下の下に政務が執られる。

 

    また左院は暫定的な立法府としての役割を果たし、右院では各省のトップが事務について審議することになるという。

廃藩置県

 

 7月14日

 

 廃藩置県は700年来の武家封建を一兵も動かさず一滴の血も流さずに、一朝に一掃されました。

宮中の改革

​ 西郷は理想とする天皇が、如何にあるべきかを考えていた。それは天皇を雲の上に祭り上げてはいけない。君民の間にわだかまりがあってはいけない、まず天皇のお側に優秀な人材をつけなければいけない。

 

 そこで、門地・門閥に問われず、むしろ草莽の中から、人間的に魅力に富んだ清廉で剛直の士を選んで、これを侍従に推薦することにした。かくして、米田虎雄(肥後出身。長岡監物の長男)島義勇(備前)高島鞆之助(薩摩)山岡鉄舟(幕臣)また、宮内少輔には吉井友実(薩摩)宮内大丞には村田新八(薩摩)が選任された。また、この機会に大奥の改革にも手をかけ、明治4年8月1日をもって、従来の女官を全て免職し、改めて品性や心の優しい人を専任した。

 

 宮内少輔には吉井友実は、この改革を喜んで、その日記に「数百年来の女権、ただ一日に打ち消し、愉快かぎりなし。いよいよ皇運隆興の時節到来かと、秘かに恐悦に堪へざるなり」と記している。

 

    数百年来続いた女官支配(老中さえも口出しできない程の権力を持っていたとされる大奥)の宮廷から、華族、女官を締め出し、明治天皇が明治維新の功労者及び清廉な士族に護られて、名君となられるよう願った西郷の英断だった。それは国家権威の中核を、表舞台に引きずりだすことになる。

学校制度の確立

​ 廃藩のために従来の藩校は財政面からも維持できなくなった。そこで、これに代わるものが必要になって、新時代に必要な教育内容を盛り込むことになった。旧幕府時代は藩校もあれば私塾もあれば寺小屋もあった。しかしその規模は大小さまざま、学校に相当するものが様々あった。しかし、内容はまちまちで、レベルも違っていた。これを統一して不変的に誰でも教育を施すことが、学校制度の目的であった。その頃の国民の識字率は、男子は40パーセント、女子は10パーセント世界的に見ても教育の面から見ると後進国ではなかった。しかし新しい教育制度は、この高い教育土台を基礎にして、機会均等の理想に向かって義務教育を充実し徹底することを重点とした。

 

 明治5年6月24日、太政官は文部省に対して、学生手順を示した。その中で「必ず村に不学の家無く、家に不学の人無からしめんことを期す」と言っている。

 

 つまり、男女の区別なく、国民全てに義務教育を施す。子女を小学校に就学させるのは、父兄の義務であるとした。この指示に基づいて、8月2日、学制が公布された。全国を八大学区、各大学を三十二中学校区。

警察制度

​ 明治5年2月18日、西郷が東京府大惨事、黒田清綱に与えた書簡の中に「ポリス」「ポリス制度」という文字が出てくる。欧米のポリス制度を言語に用いてこの制度が創設された。帝都の治安が目的である。

 

 最初ポリス3,000人のうち、2,000人を鹿児島に募り、1,000人を他の各府県位に募った。鹿児島の2,000人は鹿児島の事情で郷士から募った。城下士は軍隊に採用して、郷士をポリスに採用しバランスを考えたのが西郷であった。尚、昔から鹿児島では「オイ、オイ、コラ、コラ」は親しい者の間で呼び合う言葉である。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。

 

 薩摩藩出身の川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議した。司法省警保寮は内務省に移され、1874年に首都警察としての東京警視庁が設立された。

 

国民皆兵の制度

 

 廃藩置県によって、士族の特権は剥奪され、軍国の義務は国民全体が負うことになった。この際、募兵・傭兵の制とするか、徴兵制にするかは、一大問題であった。そのころ政府の首領、有力者たちは、たいてい徴兵反対であった。参議の板垣退助は、市民平等論の主唱者ではあったが、徴兵制によって大兵を養うよりも、少数精鋭の傭兵の方が善美であると思っていた。兵部大丞(ひょうぶだいじょう)の山田顕義(長州藩)などは、徴兵制反対の急先鋒であった。薩摩の島津久光は、廃藩置県さえも反対であったのだから、徴兵制などとんでもない。隆盛傘下の桐野利明、篠原国幹なども、徴兵制を喜ばなかった。

 

 かつて、大村益次郎(兵部(へいぶ)大輔(たいふ)(ひょうぶだいふ))が暗殺されたのも、彼が徴兵制の創設を考えていたからだ。よって、徴兵制を推進しようとすれば、大村の二の舞を覚悟しなければならない。

 

 だから、よほどの名望と胆力がなければ、この問題に取り込むわけにはいかなかった。

 

 

 したがって、一君万民、市民平等を維新の理想とするならば、国民全体の中から勇健壮齢の男子を選び、これに国を護る栄誉と責任を与えることは、この理想にふさわしい制度である。兵役の義務は3年とし、あとは在郷軍人とすれば、平時における常備兵は少なくて済むのである。そこで西郷は大村の後を受けた山縣有朋(兵部大輔)を盛り立てて、弟の従道(兵部少輔(しょうゆう))にこれを助けさせ、徴兵制度を採用した。全国民を対象とした普遍的な徴兵制度になったのは、西郷が指導しバックアップした結果である。

 

 

 

学 制 公 布

すべての国民に学問を!

 

 明治5(1872)年8月3日、明治政府はすべての国民が教育を受けることができるよう、学制を公布した。これにより、全国に大、中、小学校が建設される。公布文によれば「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」とされており、日本国民は身分男女の別なく、学問を学ぶことができるようになる。

  フランス式の学制を参考にして、全国を八つの大学区に区分するもので、それぞれの大学区は32の中学区、各中学区は210の小学区というように、細かく分けられている。一小学校区は人口約600人を単位とした。つまり、こうして全国各地に小学校と中学校を設置し、全員が学べる制度にした。文部省予算も大幅に取り付けられ、すぐに開始された。

  西郷隆盛が最も優先したのが教育制度である。西郷は庄内藩から来た若者たちに「学に志す者、規模を広大にせずば有る可からず。さりとて、唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、身を修めるにおろそかに成りゆくゆえ、終始、己に克ちて身を修するなり。規模を広大にして己に克ち、男児は人を容れ、人に容れられてはすまぬものと思えよ」と説く。

  た明治政府は、各大学区に一校ずつ設置する帝国大学について、1915年までに完成させる方針を打ち出している。

 

 

 

 

銀行制度創設

 

 明治5年正月元旦、西郷から黒田清綱に会えた手紙に「バンク」すなわち銀行を設立するために、斡旋尽力してやった書簡があった。大久保や岩倉一行が外遊中に西郷は参議で同時に大蔵省ご用係として、大蔵省の事務監督をしていた。この時、東京府知事の由利公正から上申書が出たが、東京府下に銀行を設立することを反対したのは大蔵省当局であった。つまり知事が心配しているようだから、うまくいったということをそっと耳打ちしておいてくれというのである。明治5年11月15日に国立銀行条例が公布された。西郷が主となり、熱心に設立許可を唱えて、日本最初の銀行が誕生したのである。

 

 

国立銀行条例設定布達

 

 

​ 明治5(1872)年制定の国立銀行条例に基づき、政府発行の不換紙幣の整理と殖産興業資金の供給を目的として、第一国立銀行が設立された。当初別々に銀行設立を計画していた三井と小野組が共同で出資して、渋沢栄一が総監督(頭取)となる。その後、民間資本を導入した銀行が各地に、その土地の資産家が中心となり設立されていった。銀行設立は、その後の日本経済の立て直しの原動力となり、国内各地では殖産が興業しはじめた。

 

 西郷は財政面では、トント薄いかというと、そうではない。欧米視察中の大久保の代わりに大蔵卿を西郷が兼務するが、大枠だけ掴み、あとはほとんど大蔵大輔(おおくらのたいふ)の井上薫らに任せている。

 

 「国立銀行」は、国立銀行条例に基づく銀行という意味の名称で、国営銀行ではなく民間銀行であった。もっとも、民間の銀行の中でも、「国立銀行」が銀行券を発行していたのに対し、「私立銀行」は銀行券を発行できないという違いがあった。

マリア・ルーズ号事件

 

 

 

​ 1872年(明治5)7月のペルー船、マリア・ルーズ号による清(しん)の苦力(クーリー)売買に端を発した日本とペルーの紛争事件。同船は231名の苦力を輸送中、6月4日に修理のため横浜に入港。その際監禁されていた苦力が逃亡しイギリス軍艦に救助を求めた。イギリス公使からの通報に際し、司法卿(きょう)江藤新平、神奈川県令陸奥宗光は条約未締約国などの理由で外交問題化に反対した。

 

 しかし外務卿副島種臣大臣三条実美に諮り、これを奴隷売買事件として外務省管下の裁判とすることを決定、大江卓(たく)を神奈川県令(のち権令)に任じ、特命裁判長とした。

 

 

 

 ドイツなどの領事から、条約未締約国との交渉は領事団との商議事項であるとする抗議があったが、審理は未締約国裁判として各国領事立会いのもとに進められ、大江は船長ヘレイラを裁判所に召喚し、人身売買の疑いがあるとして苦力全員の釈放・本国送還を命令、船長は上海へ逃亡した。裁判の過程で日本の芸娼妓(げいしょうぎ)約定が奴隷契約であると批判されたために、政府は急遽(きゅうきょ)、「娼妓解放令」を布告した。その後、ペルー政府がこの判決を不服としたため、1875年、アメリカ公使デ・ロングの勧告で、もっとも両国に利害関係が薄いと考えられたロシア政府に仲裁裁判を依頼することとなったが、結局、日本の主張が認められた。 [滝澤民夫]『伊藤秀吉著『日本廃娼運動史』

 

 裁判の過程でペルーの船長は、「日本の芸娼妓(げいしょうぎ)約定が奴隷契約ではないか。なぜ中国人苦力の売買はあってはいけないのか」と反論した。確かにこれは、人身売買ともいえる奴隷制度であった。裁判が終わった後、この件が司法省から左院に挙げられて審議になった。左院では、「娼妓・芸妓など前借金による年期奉公人などは、人間ではあるが自由を奪われたもので、牛馬と変わりはない」という確認がなされ、そこで「牛馬に人身売買の代金を請求する謂れはない」「牛馬に支払い能力はないので、無償で開放すべき」との声が上がり、「吉原などに囲われている娼妓・芸妓は家に帰すべきだ」との結論に至った

 早速正院で諮(はか)ると、進行役の西郷は、思わず、「ほう。こげな解釈もありますか。大隈参議、ご不満の様子だが、どげんごわすか。禁止の布告に反対でごわすか。」状況は江藤新平参議から十分に知らされていた大隈重信を、故意に名指した。大隈の吉原通いが、あまりにも有名であったからである。10月2日、太政官決定で、人身売買の禁止と娼妓・芸妓の無償開放を布告した。

  その後、ペルー政府がこの判決を不服としたため、明治8(1875)年、アメリカ公使デ・ロングの勧告で、もっとも両国に利害関係が薄いと考えられたロシア政府に仲裁裁判を依頼することとなったが、「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする最終判決が下り、ペルー側の訴えは退けられた。

 

 

富岡製紙工場が操業開始

薩摩藩士石河確太郎と富岡製糸場

 

   日本の産業革命は島津斉彬の遺志を実現したものである。2014年6月に『富岡製糸場と絹産業遺産群』が世界文化遺産に認定された。この富岡製糸場が設立された明治5 (1872)年は、西郷隆盛らが岩倉使節団の留守を預かっていた留守政府時代であり、当時、蒸気機関を扱えた日本人は、名前がわかっている限りでは薩摩藩士石河確太郎のみである。

  かつて、絹織物業において日本製のほとんどは世界へ輸出されていた。1925年生糸の輸出割合は生産量のおよそ84.7%を占め、1935年には生産量のピークを迎えている。鹿児島では宮之城に片倉製糸があった。

 

 片倉製糸といえば、かつて富岡製糸場の操業を受託していた会社である。富岡製糸場は、明治5 (1872)年に官営工場として操業を開始している。また明治10 (1877)年には、同じ群馬にくず糸を集めて紡績を行う、新町紡績所が操業を開始した。新町紡績所は日本最初の絹糸紡績所である。

  石河は薩摩藩において慶応3 (1867)年に日本最初の機械紡績所・鹿児島紡績所を作った。その紡績工場の技師のための館として作られたのが、『明治日本の産業革命遺産』の構成資産リストに載っている旧鹿児島紡績所技師館、通称・異人館である。石河は御雇いの技師として富岡製糸場に呼ばれており、月給100円という当時では最高の給与をもらっていたことは群馬史料研究という雑誌によって明らかにされている。        

 

 

 明治日本の薩摩革命遺産①より

太陽暦採用

 

 

 

    新暦と旧暦が印刷された引札(ひきふだ)(広告のチラシ)(三重県立博物館所蔵)暦を引札に利用する方法は、現在もカレンダー等で受け継がれているが、明治時代の初めでは、暦は印刷も出版も明治政府の管理下におかれていたため、当時は考えられないことだった。しかし、1882年4月26日付けの「太政官布達第八号 内務卿連署」によって解禁となる。

 

 「本暦並略本暦ハ伊勢神宮ヨリ領布シ、一枚摺略暦ハ明治十六年暦ヨリ何人ニ限ラス出版条例ニ準処シ出版スルコトヲ得」というものだ。当時の人々にとって、暦は、今以上に重要で生活の中に溶け込んでいた。だから、見やすい一枚刷りの暦は特に重宝がられた。また宣伝主にとっても、捨てられず壁に一年間貼られる暦への広告は、とても効果的だったといえる。

 明治政府は、1872年に旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への移行を強行したが、農家をはじめ当時はまだ旧暦を用いる人々が多かった。政府が暦を変えたからといって、国民の生活リズムがすぐに変わるわけではない。そこで、当時の暦は新暦と旧暦を並べて掲載するものが多かった。広告部分を挟んで、右に新暦、左に旧暦という具合である。

 

                         

 

 (三重県立博物館 宇河雅之)

佐野市指定文化財キリシタン禁止の高札

 

 

 

​ 明治6年(1873)2月24日、政府は、太政官布告第68号により、キリシタン禁制の高札を撤去しました。これにより、キリスト教に対して、江戸時代初期以来つづけられてきた、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれました。掲載資料は、2月24日の太政官布告第68号の内容を収録した文書です。

 

 明治2年(1869)6月版籍奉還によって各藩主は知藩事に任命され、同4年(1871)7月廃藩置県によって、各藩は県と改称され、知藩事は県令に代わりました。まもなくすべての県は廃止され、同年11月に中央集権制の都道府県が定められました。

 

  彦根藩も彦根県となりましたが、わずかに4か月で栃木県の一部となりました。この高札は、その時のもので非常に珍しく、依然としてキリスト教を禁止しています。

 

 

 

栃木県佐野市高砂町1  教育部文化財課より

地租改正

 

 

明治6年7月に地租改正を布告した

陸軍創設

 

 

 

  大政奉還のもと新政府は天皇親政を目指して権力の基盤たる兵権の掌握を図った。しかし、統一された軍備を整えるには資金や人材そして時間が足りなかった。そのため当初は長州藩・薩摩藩などの諸藩の兵で間に合わせるしかなかった。

 鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争は急速に拡大し新政府は直属の軍隊の編成を急ぎ、1868年(慶応4年1月17日)に軍務を担当する機関として海陸軍科を新設した。その後軍防事務局(慶応4年2月3日)、軍務官(慶応4年閏4月21日)、兵部省(明治2年7月8日)と、次々に改称・編組が行われた。兵部卿に小松宮彰仁親王が、兵部大輔に大村益次郎が任ぜられた。大村の在任期間は1年半と短かったが兵権確立について

 

海・陸軍省を建設すること

 

海・陸兵学寮を建築すること

 

陸軍屯所(兵営)を建築すること

 

銃砲火薬製造所を作ること

 

軍医病院を設立すること

 

 

 

 

 

​ 以上​5点を基本目標にし、非能率な官僚組織と野武士そのままであった藩兵を再編成することとなった。明治3年8月に欧米の軍事視察を終えた山県有朋、西郷従道らが帰国し兵部省入りした後の同年10月に各藩ごとばらばらであった兵式をフランス陸軍式に統一し、改革を推し進めた。明治2年6月17日(新暦1869年7月25日)に版籍奉還されたが依然として各藩の勢力は侮りがたく、新政府はこれらに対抗し統制するために天皇直隷の軍隊を持つことを必要としていた。

 

 明治3年2月、各藩の常備定員が定められ11月13日(新暦1871年1月3日)には徴兵規則が制定された。12月には常備兵編制法が設けられ各藩の兵制規格の統一を図った。明治4年2月13日に薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵約6,000名からなる御親兵が組織され、4月には東北地方に東山道鎮台(本営石巻)、九州に西海道鎮台(本営小倉)の2箇所に鎮台を置く事となった。

  この御親兵と鎮台の常備兵力を背景に新政府は明治4年7月14日(新暦1871年8月29日)廃藩置県を断行し8月には懸案であった各藩の士族兵を解散させ、そのうちの志願者から(これを壮兵という)東京・大阪・鎮西・東北の4か所に新設される鎮台の員数に割り当てた。その後に兵部省内に陸軍部と海軍部が設けられ、兵制が大きく変化し新体制が整えられた明治4年が近代日本陸軍の始まりである。

  明治5年11月に徴兵令が施行し兵役区分が明文化され、明治6年1月に発布し歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵ごとに常備軍部隊に編入され各鎮台に入営した。同じく1月には軍制改正がなされ、6個鎮台・6個軍管にし逐次定員を充足した。1872年(明治5年)2月に兵部省を陸軍省と海軍省に分離して新設され陸海軍中央機関が分立した。この時点を以て公用語呼称として海陸軍から陸海軍に改められ御親兵は近衛兵に改称し近衛局をおき、近衛都督は天皇直隷となった。

横山安武割腹自殺

 

 

横山安武割腹自殺

政府の腐敗に薩摩藩士割腹自殺!

 

 『明治三年七月 、薩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、時勢に慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に提出して太政官正院の前で自殺したことがあったが 、後に安武の碑が立つ時 、西郷は参議でありながら 、自ら筆を取って 、その激烈な慷慨の情に共鳴同感する意味の碑文を草している 。安武の不満は西郷の不満であったのである 。』

 

 明治3年7月27日、島津久光の信任暑い旧薩摩藩士、横山安武は明治政府のあまりの時勢に憤慨して改革意見書を提出し、時弊10ケ条を記し政府正院前で割腹自殺した。

 ​ 衆議院の御門を警備していた守衛の話によれば、横山正太郎が門前やって来たのは、7月27日夕方、身なりを整え、正装で現れた横山は、静かに門前に正座すると守衛に向かい、「これからここを汚すが、どうか勘弁して欲しい」と丁寧に挨拶をした。「ただならぬ雰囲気はすぐに察したが、あまりに落ち着いた様子だったので、つい止める機会を失ってしまった。」このように、横山は守衛が呆気に取られているうちに、素早く懐をくつろげて、短刀を突き立ててしまった。守衛が我に帰った時、横山は既に絶命しており、門前には腹から流れた血が池のように溜まっていたそうだ。

 

  自決したのは政府の要職にある森有礼の実兄で、薩摩藩士の横山正太郎安武。横山は薩摩藩主に実父、島津久光の信任厚く、久光の第五子、悦之助の傅役を務めた側近。「藩内にばかりいては、軟弱な「男になる」と、悦之助に佐賀や山口への藩外留学を勧めるなど、硬骨漢として知られた武士だった。その横山が親類縁者にも告げずに割腹自殺を遂げた理由は、彼の直訴状によって知ることが出来る

 

  守衛は気づかなかったようだが、横山は自決に際して門扉に、直訴状をはさんだ竹の棒を立てかけていた。その文面は、現政府を糾弾する痛烈な文言で満ち満ちているが、言い分は二点に絞られる。一つは政府の政治方針と投函の腐敗を批判したもので、「政府は庶民をないがしろにし、士族を追い詰めるような政策ばかりを行おうとしている。それについていくら建白しても、聞こうともしない。そればかりか、政府大官は栄華を貪り、その手は金銭にまみれている」という文面となっている。

 

  もう一つは、「朝鮮を小国と侮り、無意味に軍を派遣して攻めるとは諸外国に恥ずべき遇行であり、万一敗戦の場合、億兆の民草にどう詫びるか」という外交政策に対する不満を述べたものだった。特に前項に対しては、岩倉具視を名指しで糾弾しており、他に徳大寺実則の名も挙げて、この両人が現在の政治の腐敗・堕落を招いたと断定している。

 

  政府はこの割腹自殺に大きく動揺し、早くも横山慰霊のために金百両を下賜する予定だ。西郷隆盛も横山の死を悼んで自決の牌を建立するという。事件の背景や事情を詳しく調べようともせず、慰霊金だけを出すというのはいかにもおかしな話だ。これについて事情痛は「政府は、横山の諌死で薩長閥の関係に影響が出ることを恐れており、祭祀金を下賜することで、早々に辞退を収束させたいのだ」と語る。

  横山は岩倉らを名指しで批判したが、実際に権勢欲にすがって金銭を貪っていたのは、むしろ長州閥の高官に多かった。薩摩閥の高官たちは自藩の名物藩士の死を、「長州の汚吏どもが起こした悲劇」と見ているようだ。

 

 今回の割腹自殺事件により、政府内ではドロ沼の暗闘が繰り広げられることになった。それにしても、自決という方法論はともかく横山は薩摩っぽの気骨を見せつけてくれた。事件の後衆議院は、「身分出目に関わらず、全国庶民の意見を政治に取り入れる」ことを目的に設置された機関。そこで腹をかっさばいたことに、横山の真意があったのではなかろうか。

『明治三年七月二十六日に 、薩摩藩士横山安武 (後の文部大臣森有礼の実兄 )が 、新政府の腐敗を慷慨して 、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に差し出し 、太政官正院の前で切腹して死んだという事件がおこった 。その十ヵ条を少し上げてみよう 。

一 、旧幕府の悪弊が新政府にも移って 、昨日非としていたことを今日では是としている 。

 

一 、官吏らその高下を問わず 、から威張りして外見を飾り 、内心は名利のとりこになっている 。

 

一 、政令朝に出でて夕べに改まり 、民は疑惑して方向に迷っている 。

一 、駅毎に人馬の賃銭を増し 、その五分の一を交通税として取っている 。

  (鉄道運賃の値上げなどこれですな )

 

一 、政府が心術正しき者を尊ばず 、才を尊ぶがために 、廉恥の気風は上下ともに地をはらってい  

   る 。

一 、愛憎によって賞罰する 。

 

一 、官吏が上下ともに利をこととし 、大官連がわがままで勝手なことをすること目にあまる 。

 

 この横山の碑が明治六年に東京に建てられた時 、西郷はその碑文を書いているが 、その中にこうある 。 「この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢(ゆうとうきょうしゃ)にして事を誤るもの多く 、時(じ)論(ろん)囂々(ごうごう)たり 。安武すなはち慨然(がいぜん)として自ら奮つて謂く 、王家(おうけ)衰弱(すいじゃく)の極ここに兆す 。

 いやしくも臣子たるもの 、千里万慮もってこれを救はざるべからず 、而も尋常の諫疏(かんそ)は 、百口(ひゃくくち)これを陳(の)べ力むといへども 、矯正する能はざらん 、寸益(すんえき)なきのみ 、一死もつてこれを諫むるにしかず 、もし感悟するところあらば 、豈に小補なからんやと 。すなはち諫書を作り 、持ちて集議院に至り 、これを門扉に挿(はさ)みて退き 、津軽邸の門前にて屠腹(ほふふく)す 」

西郷は横山の憤りに同感し 、その行為に共鳴しているのだ 。身参議でありながらだ 。』

西郷南州翁逸話

恩賞を固辞

 

 西郷は明治2年、維新の功労により、第一の元勲として賞典録を朝廷から受け、藩士としての最高の永世賞大典録二千石。更に9月には王政復古の功により正三位に叙された。

 しかし、西郷は自分の如き無名の藩士が、このような位階をうけては、第一これまで戦死した多くの志士に対して誠に申し訳ないとして再三辞退を申し出た。半生の心血を傾けて王政復古の聖代を迎え得たことが無常の感激であるので、それ以上、個人的な栄誉を望むのは、天意に反するものであるとの、誠に清く高い心境は、到底凡人の思い及ばぬことであり、西郷のような真に己を空しゅうする至誠の人に対して初めて至り得るところである。

巡査から怒られる

  伊作の与倉集落から出て16歳から西郷家にいた家僕の、老後の思い出話だが、西郷家の所有地が吉野の雀ケ宮にあったもので、南州翁は、そこへ行く時には、広馬場の西本酒屋から焼酎糟や酒粕を買って樽につめ、馬に積んで自ら引いて出かけられた。

 ある時、4才の次男、午次郎さんを背負い、お供をして、吉野に行く途中、上町の車町で、石につまずいて、足を痛めたところ、旦那はすぐ近くの瀬戸山薬店に行って膏薬を買ってきて、私の足指につけてくだされた。その間、馬を路の端に立たせてあったところ、そこへ通りかかった巡査がとがめたので、旦那さんは「わるうござりました」と謝りましたが、聞き入れず、近くにある警察署に連れて行かれた。私は子供を背負ったまま警察の門で、うろうろしていたところ、別の巡査が外から帰ってきて、何事かと聞いたので、かくかくの次第で今、旦那さんが引っ張られて行ったから、ここで待っているところだと言うと、「旦那とは誰か」との問いに、「武の西郷様だ」と答えたら、びっくりした面持ちですぐ省内にはいったが、間もなく出てこられて、また馬を引いて出かけられた。西郷さんは決して言い訳などは言われず自分の非をただされた。

 

肥汁をかけられ

 

 

 

 明治6年の政変で政府と決別し鹿児島に変えられて、今もある武町の屋敷におられた時の話であるが、ある日の夕方、例の通り、夕方食事をして、草履を履き、田んぼのあぜ道を散歩しておられたときのことである。ちょうど、狭い道を肥料桶をかついで通りかかっていた百姓のおやじが、行きずりに西郷さんが通られると気付き、感極まり行きずりにヒョイと腰をかがめて挨拶をした。その瞬間、その桶の中の肥汁がチャプンと飛び出して、こともあろうか、西郷翁の着物のすそにさっとかかった。おやじさんはこれを見て桶を下ろして青くなった。  

 恐縮している親父さんに、西郷は「んにゃ、おしいことしたね、花も咲かせ、実も成らす肥料を、おいのぼろ着が吸い取ってしもって」と言われて、しかし袖を拭きもしないで歩いて行かれた。百姓おやじ、ただ手を合わせて頭をしばらく上げなかったと。普通の人だったら、それも総理大臣級の人物でありながらなんという平身低頭な西郷翁であろうか。このことが西郷を別に罪なきにもかかわらず、大島に島流しにして、途端の苦しみをさせた島津久光であったらどうだったであろうか。

 イギリス人が自分の行列の前を横切っただけで殺してしまい、有名な生麦事件を引き起こし、日本の一大事の薩英戦争まで発展せしめた久光ならば、百姓おやじにどんな処刑をしただろうか、身震いがする。

 

若者の下駄の緒を立てる

 

 

 

 この頃、畑仕事に出かけるときは、全くみすぼらしい百姓おやじの姿であったので、どこの誰やらわからない。ちょうど道で出会った侍あがりの若ものが、「オイ、おやじ、俺の下駄の緒が切れたので立ててくれ」と足を突き出すと、西郷は、ハイハイと答えて、自分の手ぬぐいを腰から取り、端を引き裂き、古下駄の緒をたててやった。すると若者は「オイ足にはかせんか」とまた、足を差し出した。すると西郷は下駄の緒を手で緩くして、若者の足を握り下駄をはかせた。若者はろくに身もせず御礼の一言も言わずに立ち去った。それから、その百姓おやじが西郷翁だと人から聞かされ、若者は青くなって武村の宅に飛んで行き、翁に面談すると、頭を地面にすりつけた。「下駄の緒をたててもろうて、西郷翁とは知らず御礼も申し上げませず、お許し下さい」とあやまると、翁は笑って、とがめず、「自分のことは自分でしたがよか」と一言だったと。

砂のついた握り飯を平然と食べる

 

 西郷さんが参議になられた頃、他の参議はいずれもあっちこっちからご馳走を取り寄せるのに、西郷だけは従僕にいつも手製のものを持ってこさせた。ある時、大隈参議の従者が、西郷の従僕に対して、試しに「貴公の主人の弁当は何々か」と、聞いたので、西郷の従僕は「そりゃこの握り飯だけだよ。びっくりするなよ」と風呂敷を解いて竹の皮を開くと、出てきたのは、味噌をこってりつけた拳大の握り飯だけだった。明治5年の「秋のこと、御新兵諸隊の演習が東京越中島で挙行された。西郷都督も出場した。昼食の時、諸将は皆立派な弁当を開いたが、一人西郷都督は、従僕から一個の握り飯を受け、その包紙をほどこうとして誤って取り落とした。裸の握り飯は地上にごろごろ転がって砂がついたが、それを取り上げて、その砂を、ふっと口で吹き払い、平然として砂のついた握り飯を食べた。その有様を見ていた兵士たちは、皆、目を見合わせて、西郷都督の行為を感心した。

 

 

雨中に立ち往生

 

 

 

 西郷が陸軍大将出会った頃のこと、ある日、太政官から退庁しようとして履物を求めたが、下僕がそこにおらず、探そうにも探せない。それでやむなく足袋裸足のまま退出した。ちょうどその時、時雨が降り出して、ずぶ濡れになったが、翁はそれを少しも気にとめず、悠々として朝廷の門を出ようとすると、いきなり門衛が怪しんで呼び止めた。

 すると翁は「西郷だ」とつげても門衛は信用せず、ずぶ濡れの西郷に「待て」と呼び止めた。翁は強いて争いもせず、言い訳もいわず、急雨を浴びて門頭に立ちつくしていた。

 その時ちょうど、岩倉右大臣が通りかかった。翁が門衛とともに雨の中にずぶ濡れになって立っている姿を見て驚き「そなたは西郷大将だが」と声をかけたので、門衛も初めてわかって驚き、あわててあやまり、罪の沙汰の命令を青くなって待っていた。しかし翁はかえってその職務に忠実なのをほめて、岩倉大臣の馬車に同乗させてもらって帰られたとか。

 

 

 

老人の車の後押し

 

 

 

 南州翁の徹底した愛情は肉親や部下などと限らず、どんな人でも、どんな場合でも、他人が難儀して苦しんでいるのを見ると、そのまま、じっとしておれなかった。これは、陸軍大将になってからの話であるが、翁が金ピカの陸軍大将の服を着て、東京九段の坂下まで歩いて来ると、思い荷物を引く一人の老人が坂をどうしても上がれずに困っている。それを見た翁は、さっそく、後ろから車をぐいぐい押して、坂の上まで押し上げた。体の大きいのに金ピカの軍服を着ているので汗も流れた。「じいさん、この荷は無理だ。これからもっと荷を軽くしたほうがいいよ」と親切に注意した。

 爺さんは、涙をながしてありがたがり、後ろを見返り、見返りすると、金ピカのふき雨を着た陸軍大将の西郷翁が平気な顔で汗を流している。坂の上で、そのじいさんは、地べたに頭をすりつけて、有難ささに、ガタガタふるえて、お礼を言うと、西郷翁は「着物がよごれるが」と言って、スタコラまた坂道を下りて帰ったと。

 

やっぱり兄にはかなわない

 

 西郷は家庭で、また日常の生活で、食事についても、ご馳走の有無や塩加減のよしあしなど一切ふれず家人を責めることもなかった。維新後、一時、東京の浜町で弟の従道と同居していた頃のことであるが、ある朝、夜明け前に食事を済ませて出かけた。あとから起きた弟の従道が食前に向かって見ると、肝心の味噌汁が、ただ、さ湯だけで、中に、味噌汁も塩気もない。まかないのおばさんをとがめると、「ハアこれは、すみませんでした。今朝、旦那さんが、早くお出かけで、暗くて、ついお味噌を入れるのを忘れました」という。

「それで兄さんはどうだった」と聞くと、

「はい、旦那さんは、これは、うまいとおしゃって二杯も召し上がりました」との答えに、さすがの従道も「うーん、やっぱり、おれは、兄どんにかなわぬわい」ともらしたという。

 

カステラ持って来い

 

  東京高輪の大円寺というのは、薩摩の江戸時代からの菩提寺で、戊辰の役その他、南州翁の同士でこの墓地に眠っているものも多かった。翁は多忙な中でも墓参を欠かさなかった。ある日、高島鞆之助(後の陸軍中将)を連れて、その墓参りの帰り道、突然、大久保邸を訪ねた。そして、あいさつがすむとすぐ、「この頃、参議連はみんな立派な邸宅を立てているそうな。しかし、大円寺の戦死者墓地は、まったく草がぼうぼうとしている。あれはどうするつもりだろうか」と言い出した。その頃、大久保は二本木に広壮な邸宅を建築しかけていた時だったから、むっつりして一言二言、曖昧な返事をしただけ。西郷は「鞆どん、もう帰ろう。今日は機嫌が悪いようだ」と、そのままさっさと席を立ってしまった。しかし、門外に出かけてから、ヒョイと止まって、「鞆どん、鞆どん、」と呼ぶので、「なんですか」と聞くと、「今な、カステラが出ていたろ、アレをもらって来ないか」とのこと。高島もなかなかの男だから、「ああ、そうでしたね」といってすぐ引返して上がり込んで、カステラだけを持ち帰った。そんな天真爛漫な子供のような無邪気さもあった。

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