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明治6年頃の朝鮮国と日本

 

 朝鮮の開闢時代は深く知ることを得ないが馬韓、辰韓、弁韓の三国時代を経て、百済、高麗、新羅の三国時代になる頃から、我国との関係が追々密接になって来たので、高麗王の王建という人が三国を統一して、高麗王朝なるものが茲に開けたのである。この間、二千五百年とあるから、随分古い方で東洋でも権勢の利く筈なのである。それから高麗王朝が倒れて李氏の王朝が新たに生まれたのだ、それが朝鮮王家である。

 此の李氏の王朝を起こしたのが、太祖康献王は李成珪といって、之は中々非凡の人物であった。この王が、三国を統一して国号を朝鮮という事に定めた。日露戦争の当時に国王であった李熙は即ち此大祖の末裔である。

 

 李氏の天下になってからは年を経ること五百年であった。李熙が王位に着いた時は、他の国に余り類の少ない珍説があったのだ。朝鮮の暦で言うと開国四百七十二年とあるから我が国の文久三年である。この年、哲宗という国王が病死した。ところが世子がない為に朝廷内は非常に混乱して、派を立て、党を立て、頻りに自派で新帝を得ようとして酷い暗闘があった。

 哲宗の妃が金氏であって、金氏の一族が朝廷を固めているので、是非之を続けて権力を保ちたいとの事から、金氏に所縁の深い皇族から新帝を挙げようとする。それを哲宗の前の憲宗王の妃の洪氏の一族が頻りに邪魔をする。

 然るに憲宗の前の翼宗王の妃は趙氏と言うのがあって、婦人でこそあれ胆略の優れた凄い手腕があった。この趙氏が密かに、金氏、洪氏の争いをうかがって、自分の出番を待っていたのだ。

 金氏、洪氏の互いの睨み合いを見て、趙氏は喜んだ。此の趙氏が密にはかって、洪氏を巧く説きつけてこの連合が成立して金氏に当たることになった。争いの長引くは金氏有利なので、之をはやく決するのが洪氏の利益になるのだ。

 ここで、趙氏の意見で興宣君の子、李熙を立てようとのことで之を朝議にかけた。

 

 さあ、金氏一派の驚きは尋常でない、洪氏の押したものが王となれば洪氏の勢力になるのだ。そんなことは許せないというので、金氏の一派はこぞって反対することになった。

 金氏の反対の理由は、太祖李成珪の残した王憲に、生父あるものは国王になることを得ないとある、李熙には興宣君という立派な生父があるのだから、これを擁立することは、太祖の王憲に背くことになるのだ、金氏は之を盾に李熙の排斥にかかった。

 洪氏の陰に隠れて趙氏は、潮合を見て時は良しと見て取ったから、洪氏をして李熙を擁立して、国王とする趣旨を公表させ、同時に李熙のもとへ使いを出して、内外の駆け引きのほか、一切の仕組みがすっかり出来上がった。

 李熙のほかに適当なものがいないことは、金氏独り胸を苦しむところであった。金氏に策士がついて居たのか、早くも態勢を見て、突然金氏の方から李熙を擁立する旨の教書を発表した。之にはさすがの趙氏も施すすべがなく些か閉口した。

 金氏の一派に計量の裏をかかれたので、洪氏の驚きは非常であった。趙氏も同じ驚きではあったが固より胆略機智に富んだ趙氏の事であるから左様までは失望せず、何か胸中成算のあるものの如く只金氏の為すに任せて置いた。

 将に擁立去れんとする李熙の父興宣は、李星應と名乗る人で、之が即ち日本人の知る後の大院君である。国王の父は皆大院君であるが、日本まで響いた大院君は此の人だけだった。胆力も学問も智恵もあって、それで皇族の一人だから実に凄いものだ。任侠の気風に強い復讐心を加味した豪傑肌の人であった。財を散じて、客を迎えるので何時も浪人集まって、置酒高談に夜を徹するという有様だ。

 

 従って生活費に苦しむことは非常だが、そんな事には無頓着な興宣君、まるで梁山泊の首領という有様で日を送って居るうちに、滔々切迫の極みに堕ちて、京城を夜逃げすることになった。舞台が朝鮮だけに面白い、皇族の夜逃げなどは容易に他国では見られないことだ。

 開城府という土地へ来て家は構えて見たが、別にこれと決まった商売がないのだから、直ぐに米櫃が底をつくと云う始末で興宣君も今は進退窮まった所へ、京城から跡を慕って来た子分が、見るに見かねて、土地の博徒に渡をつけて歩合(かすり)を収めさせることにした。それから、いろいろな事件を引き受けて、報酬を得ることも始めた。之がために飢渇は免れたが、固より誉められることではない。

 そんなことで、年月を送って居ると、意外千萬にも京城から使者が来て、その子、李熙を以て新帝に拝するというのである。

 並大抵のものならば直ぐに二つ返事で李熙を渡してしまうだろうが、興宣君中々そんな育児では無かった。

『李熙を新帝に迎えるという事は有難いが、俺はどうなるのだ、規則を破っても俺を大院君にするか、それはいったいどうなるか、それが定まらないうちは引き受ける訳にはならぬ』と、言われたので、使者も之には閉口して、京城の方へ急使を以て照会するやら、朝廷では是非の議論が沸騰するやら、擦ったもんだの結果、終に其希望を容れることになって、愈々、李熙を迎えることになったものである。

 斯うして李熙は京城へ乗り込んで来た。たとへ子供でも新帝になられる御方が来るのであるから、宮廷へ着かれた時は朝臣一同玄関まで出迎えた。折から、例の趙氏は次室に控えているのだ。李熙が部屋の前へ来られるのを見るや、突然に駆けだして李熙の手を採った。

 

 朝臣が呆れて見ていると、趙氏は、『殿下にはよく御承知下された、殿下は、わらわの愛児でありますから、之よりは何事も、わらわに仰せ下さいませ』婦女でこそあれ、趙氏は、金氏の一族に裏をかかれたと見せて、却ってその裏を描いたのだ。直ぐに自ら李熙を抱いて内殿へ入った後、朝臣を前に並べて、『今日より李熙殿下を新帝となす故、左様心得よ』と申渡しをする。

 『それに就いては、新帝なお幼少にあらせらる故、わらわが万事国母として睡蓮の裡に政治を聴くことに致す』と、大胆にも宣言してしまった。

 事は終に之で決まった、即ち李熙は哲宗の世継ではなく、翼宗の世継という事になったのである。

 北条頼友の政子も偉かったが趙氏には遠く及ばない。国は朝鮮でも婦女に斯ういう偉いものがいたものだ。興宣君も引き続いて参内する。金氏の一派を退けてここに新たなる内閣が組織され、興宣君は大院君として改めて摂政の役に着いたので、その本領は之から発揮されるのだ。

 

 大院君は摂政になると同時に一大工事を起こした。それが有名なる景福宮の再建である。もっとも、景福宮と申す御殿は、

今から五百年も前に出来たものだ。太祖康献王以来、二百年余り王宮として、結構雄大加えるに美を極めたもので、東洋屈

しの大建築物であった。然るに、豊臣秀吉が攻め込んだ壬振の役に兵火で全焼した。其後、幾たびか再建を企てたけれども、何時も不祥のことがって竣成しなかったのである。

 併し、国民は上下共に之を惜しんで、機会さえあれば再建しようという覚悟でいた。大院君も自分の息子が国王になったのであるから、是非この再建を仕いという考えで、全国から其の道の名匠を集めて設計をさせるやら、種々に手を尽くして着手するまではしたが、普請の金が出来ない。之には大院君も一時閉口したが、忽ち一つの方法を案出して全国へ命を出して建築用の物資を献納させることにした。それは郡守に命じて家毎に命令するのである。『貴様の家は財産がどの位あるから、之だけのものを献納しろ』と、いうような調子で、政府の威光でドシドシ強制執行をするのだ、もし拒むものがあれば、街へ引き出して責めつけるから、皆震えあがって御沙汰が通る。材木とか石だとかいうものは、之で余るほど集まった。それから実際これに応ずることのできない、無資力者に対しては一々労役を申付けるのだ。峻厳なる手段を以て迫ったから、大院君の見込み通りに物資も集まれば人間も充分で、愈々建築に着手した。然るに、棟木の組み立ても出来て其祝も済む晩に、普請小屋から火事が始って、せっかくの苦心も煙となって消えた。之が八道の人民に知れると、皆渋い顔仕て、『余り惨いことをするから、左様な災いが起こるのだ、放火でもなければ失火でもない、之は全く天火である』と、いうて嘲った。

​ 何事につけても挫折とか、中止とかいうようなことの嫌いな大院君の性癖としては、決して此の儘に止める筈がない。

いづれ何とか方法を考えて再び建築に着手するのだろうが、誠に困ったものである。大院君の平生を良く知って居るものは密に胸を痛めていた。果たせるかな、大院君は非常手段を以て第二の徴発を始めた。方法は前の時と大差がないけれども徴発の仕方に数倍の俊列を極めたのだ、此の時は、八道の墓石まで搬出させた程だから、その他の事は推量しえるのである。

 地方一揆も各所に起こったが、兵を差し向けてドシドシ片付けて仕舞うふ、背いたものは、家財を没収して建築費に為すという次第で等々景福宮はついに出来上がった。

 大院君の峻烈な性質は、只国民に対してのみでなく、外国人に対しても同じように行なったのだから実に凄いものだ。

フランスの天主教が蔓延して来たので大院君は之を直ちに之を禁止したけれどもフランス人が承知しない、信者が日一日と増えて来る。此処において、大院君は烈火のごとく怒って、宣教師十二人を捉えて片端から首を切った。三人だけは逃れて行方不明になったが、同時に信者も同罪として斬首されたものが大勢いた。行方をくらました三人の宣教師はシナのチーフ迄逃げて来て、折から停泊中のフランス軍艦へ訴えたので、水師提督のローゼ将軍が紅華湾へ三隻の軍艦で乗り込んで出来た。

 談判の末が戦争になった。之はフランス兵の大勝利となって、陸戦隊を組織して上陸した。所が、大院君はあらかじめ射虎を業とするもの八百人を集めて敵兵の上陸を待っていたのだ。眞に百発百中で一本の空矢もなく、フランス兵は大敗北となって引き上げた。

​ 文明の先進国を以て誇り、而も世界五大国の一に数えられるフランス国ともあろうものが、猟夫の半弓に射縮められて戦争に負けたなどとは、実に珍聞として伝えるべきではないか、尤、朝鮮人の半弓は世界第一で、虎を狙うのに必ず目玉を狙うのだ。

 半球の先に毒を付けて眼玉を射るのだから堪らない、大きな虎が一本でぎゃふんとなるのだ。それを人間に用いるのであるから、百発百中も無理もない。

 

 その後、アメリカ合衆国と戦ったことがある。それは斯ういう事情からだ。合衆国の商船が大同江へ来て停泊していると、夜半に付近の朝鮮人が集まって来て焼打を仕かけて、哀れ、人も物もすっかり焼いてしまった。いかにも野蛮の極みではあるが、未だ朝鮮政府が許してない貿易場所であるから、ここに来たのは不届き千萬であるというのが、焼き打ちの口実ではあったが、それにしても野蛮な残忍の所為と言えるのだ。合衆国府は直ちに水師ローゼルス将軍に命じて、軍艦五隻を以て攻め込ませた。

 今度は前年のフランス国の敗戦に鑑み、よほど注意して戦うから、殆んど連戦連勝の勢いであった、流石の大院君も手を束ねて、敵兵の侵略に任す外なかった。ローゼルス将軍は江華島一帯の沿岸を占領して大得意で居たが、ある日沢山の捕虜を調べているうちに、非戦闘員が大分いたので、翌々調べて見ると全くそれに違いない。其処で、文明国の戦争には非戦闘員を捕えるという事を許していない、合衆国は文明国であるから、左様な不法の事は出来ないという議論から、その捕虜を一切放免する旨を通知し送り届けた。ローゼルス将軍等は益々得意の鼻高く、之位に注意したら如何に朝鮮政府でも少しは解るだろうと、密に政府の様子をうかがっていた。

 放免された捕虜は各自宅へ帰って、安心している所へ、やがて郡衛から呼び出され他の出、出頭したら,直ぐに数珠つなぎにして京城へ送られてしまった。大院君が自ら其取り調べを為すと一応の申し立ては、許されて帰って来たのだという迄の事で、米軍の内情を聞いても一向に知らぬと答えるばかりに、大院君は非常に怒って、『この者らは、敵軍へ捕えられて自国の秘密を打ち明け、之がために許されたのだ、今敵軍の内情を糺すに一向知らぬという、之は確かに口止めをされたに違いない、斯ういう奴を活かしておくのは、我国の為に宜しくない、斬って仕舞へ』と、いって、この日のうちに首をはねて仕舞った。

 之を聞いた米軍の驚きは非常なものであった、恐らく之ほどの野蛮国は世界に二つとあるまい、かかる国と戦争を続けるのは馬鹿らしいことだとあって、本国政府へ此の始末を報告詳しく報告に及んで、戦争を続けるには数隻の軍艦と陸兵が必要であるということも書き添えた。米国政府でも呆れ却って、『そんな野蛮人相手に此の上の戦争は無駄である、一時引上げて来い』との命令を下して、ローゼルス将軍も之を幸として、本国へ引き上げてしまった。さァ、斯うなると大院君の鼻息は素晴らしいもので、世界の二大強国をわが威武に怖れて此の始末だ、その他の国の如きは、何と言おうと河童の屁ほどにもないと、気焔万丈で世界を睨んでいた。その後、幾年ならずして修交の事を申し込んで、従来の関係を続けようとしたのが、我国日本であったのだ。此の時の大院君に日本国を認めさせようとしたのだから、事の収まる筈はない。

 明治四年の二月になって、我が政府では朝鮮一條が全然縁の切れたものでないから、未だ談判の仕様で何とかなると云う見込みをつけて、外務権少丞、吉岡徹蔵を正史とし、例の森山茂と、此の時は既に権大録になっていた廣津俊蔵とをつけて、対馬まで遣ることになった。吉岡はかって遷都の議に反対した人で森田節斎の門下であるが、極めて頑固な代わりに硬骨剛腹の人物であった。一行は対馬へ着いてから、更に宗義達を以て朝鮮政府へ一遍の書面を送り、この際相当の使臣を選んで応接の任に当たらしめようとの赴き申し通じた。ところが、中々之に応じる様子はなく、従前と同じような返事が来た。のみならず、対馬の漁夫が釜山へ漂着したのを、保護を加えずして、倭館と稱する宗家の役所前に打ち捨てて行った。到底尋常の談判ではだめだと見込んで、廣津権大録が宗と共に上京して此の始末を副命に及んだ。時に廃藩置県の事が決して、我が政府にも改革が行われて、澤外務卿が罷免され岩倉具視が外務卿になったので、改めて宗義達は外務大丞に任じられて、朝鮮へ対する談判の引き継ぎを申付けられた。

 之から宗と廣津は対馬へ帰って来て、談判をするつもりで掛け合いの書面を送ると、やはり同じようなこというて来て、まるで暖簾と腕押しするようなものだ。

 此処において、我が政府でも許し難いとは思うが、猶一応最後の書面を送ろうとなって、『貴国と我国は沿岸相望みている為に、双方の漂流民に対する保護の事を定めて置きたい、それについて是非貴国の訓導をして、我が使者に逢せて呉れ』

斯ういう意味の書を送った。所が今度は受け取らない。一つ事は同じことだから受取っても仕方がないというのであった。無礼もここまで加えられたら、いくら気楽な者でも怒るだろう。吉岡の一行は対馬を引上げて来た。廣津一人は猶対馬に残っているのだ。吉岡はこの復命を終えると辞職して仕舞った。

 定田白茅は、疳(かん)癪(しゃく)を起して退き、吉岡は使命を空しくしたりとて責めを引いて民間に走り、只一人留まったのが森山茂である。森山は帰国すると直ちに政府へ一遍の建白書を差し出した。其大要は斯うである。『朝鮮へ対する談判は、宗家を中間に置いては到底充分の結果は得られまい、自家の収利を保とうとする心がどうも抜けないから、敢えて朝鮮政府を援ける次第ではなかろうが、急所へ手の届かない感がある。幸廃藩置県になっても国制も一変したのであるから、この際断固たる処置に出て、政府が直接の関係にするがよかろう。それには堂々と正面から談じ込むのが第一である。』

 此の建白は動かされて政府も対朝鮮政策を一変することにした。明治五年五月二十八日になって、朝鮮交渉の一切の事務を外務省へ移して、旧対馬藩の扱ったことは、細大となく外務省で引き受けることとなった。

 この時は、既に岩倉大使の一行が欧米各国の視察に出掛けた後で、外務省も岩倉に代わって副島種臣が兼任していたのである。

 副島は外交については常に極めて強硬の意見を持っていた人で、漢学仕込の厳格な態度を以て外人に接する人であるから、外人から副島を非常に窮屈な人物として、外務省を馬鹿にしていたものも、副島に逢う時は自然に遠慮がちであったといふ、それに付いて面白い逸話がある。

 副島は身なりを飾らななかった人で、元来が物臭い方で入浴の如きも月に二三度、衣服は何時も垢染みたものばかり、頭髪の長くなったものをムシャクシャさせて、まるで霜の降ったようなに髪垢(ふけ)が浮いている。その風采たるや、芝居でよく見る山男がハイカラになったようなもので、西洋の外交官は、風采を整えることが一つの仕事になっている。それを副島が山男然とすましているのだから誰でも恐れ入り。どんな外人でも辟易して、二度と副島に逢おうとはいわなかった。

 英国行使のパークスは、出身が下賤で出会ったから言語態度は甚だ野卑であるが、東洋駐在の外国行使のうちでは稀に見る敏腕であった。此の男に怒鳴りこまれると、外務省の役人は一ちじみになった位である。ある時、副島と相対し何か頻りに議論していた。強情この上もない副島と威勢並ぶものなき行使と、互いが我意を張って争うのだから、怒鳴り合いの声が室外に漏れる位であったが、やがて副島は次の室に入って、暫くすると出て来て、

『サァ、外へ行こう』

『外へ行きます、何しますか』

『議論は百日闘っていても貴下が譲歩しなければ結局は決しない、いっそ決闘して是非をきめましょう』

 

 見れば、副島の左手には長い朱鞘の日本刀が在る。之には流石のパークスも閉口して終譲合いがついて事は難なくすんだということだ。今時こんなことをしたら却って面倒なのかもしれないが、只この位の覚悟は何時も有っていてもらいたいものである。

 

 森山の建白に基いて早速閣議は行われた。談判の方針も定まって外務大丞、花房義質を正使とすることにした。森山の従いて行くことは例によって例の通りである。別に視察員として、陸軍中佐北村長兵衛(土佐)同少佐別府晋介の二人が同行することになった。池上四郎と武市熊吉の二人は特別の旨を受けて、支那の牛荘へ派出された。朝鮮問題は刻々と難しくなるばかりである。

       六  1296

 朝鮮行きの使節は段々人選にも厳重になって来る上に、行装の如きも大袈裟になって、今度は武官が同行するのみならず、一行の乗船に明光、春日といふ二隻の軍艦を以てして、その当時にあっては、頗る注意すべきことであろう。

 はじめ、太政官より一行に命令が下った時、一行の重立ったものが参議の列席している前で、さまざまの協議をしていたが其うちの一人が、『朝鮮の事は既に数年の長きに渡って、未だ何れとも決せざるほどの難しき談判に御座りますれば充分に今日までの関係を調べ、書類にも出来るだけは披見して置きたく存じまする故、出発の日限は多少御猶予を願いまする。』

 と、述べたので、参議諸候に於いても、何とか之に答えなければならぬ、出発の日限を動かすという事は、無論不可だとは思うが、此の請求も無理でないから鳥渡答えは行き詰まった。

 最初から黙然としていた例の西郷隆盛は大きな目玉ギョロリとさせて、『書類な、調べてどぎゃなさるか。』当たりの優しい、薩摩調子の気は帯びているが、さればとて左様角ばって強がる風は少しもないのだが、此の人が斯ういう席で何か言い出すと、妙に頭から押さえつけられるような心地がして、自然に頭が下がって来る。折角発言した人も後言葉が出なかった。『朝鮮の事な、書類じゃあ決まらん事です、今日までの成行な御承知じゃろう、その上に、何を調べるのか、談判な新しく開けば可か。』

 朝鮮人を相手に従来の経過を繰り返し、徒に歴史の後を追った所で何の甲斐もないことは、今日までの成り行きで良く解って居る、それをまた繰り返しに行くのではない、今度の一行は最初の談判で、最終の返事を聞いて来るのだ。それを今書類を見て如何するつもりか、という意味で斯ういうのだ。

 之が為に一行の出発も定めの通りで、九月十五荷は釜山に着いた、途中対馬へ立ち寄って廣津権大録を伴い、宗家の旧役人を加えて、新たに外務省の役員として加えて来たのである。然るに釜山へ着いてから、新たに倭館の館司になった深見五郎を東莱府へ使者とした。所が府吏の答えには、『そんな人は館司と認められない、また従来倭館へ送付した薪炭その他の日用品も、実は旧交有る対馬へ送ったのであるから、対馬人の手から倭館が離れた以上、決して一品も之からは送れぬ故、念の為断って置く』との事であった。それから、朝鮮人の漂流して来たもの十四人を、この一行が連れて来たので之を引き渡そうすると、『交際のない日本政府から、そんなもの受け取ることは出来ぬ、勝手に置いて行ったら可ろう。』と謂う乱暴な返答であった。之からと言うものは如何なる掛け合っても、同じことを繰り返して更に要領を得ることが出来ない、訓導(くんどう)とか差使(さし)とかいうような上級な上役に逢おうとするが、それも口実を設けて一向に取合わない。

​ 

​ 村や別府は流石に武官だけあって、朝鮮人に変装して東莱府へ乗り込み深く事情を探って帰って来た。その見込みに由っても最草普通の手段では、充分な結果は得られないという事が解った。此処に置いて、花房廣津の両人は森山を対馬に、少録の奥義成を倭館に残して一先ず日本へ帰ることにした。

 

七   1299

 

 大院君の眼中、日本国を何とも認めていないから、如何にどんな方法を以て掛け合った所が無駄なことである、普通の手段で朝鮮政府の覚醒望むものは、宛も黄河の澄むを待つに均しいのだ。

 花房の一行が東京へ帰って来たのは明治五年の霜月であった。副命を聞いて内閣の諸候も非常に怒ったが、当時の内閣も常に多少の波乱が在って、参議のうちにも勢力こそ西郷派にはおよばないが、岩倉派と握手しているものもあり,殊に大蔵省には例の井上薫が頑張って居たか何事も悪かった、井上は参議ではないけれども大蔵大輔を努めている、大久保が留守の間の本国の財政をは、井上によって左右されるのだ。

 その時代の大蔵省は今日の大蔵省と違って、内務省、外務の両省の仕事の一部も大蔵省に帰していた位で、各省から請求してくる政費の如くも、一々削減を加えて容易に請求通りにはせず、甚だしきは内容に立ち入って指図がましいこともする。

 井上の性格がまた頗る干渉好きで、議論腰の強い強情無類と言うのだから、何時も各省と衝突しているのだ、それに井上の消極主義というて今日でも評判のものであるが、その時代から消極的で、朝鮮などに手を出して徒に国費を散するは不可である、それよりは其金を以て内地の改良をするのがよい、各省の予算も削れるだけはドシドシ削るのが可い、

 その上、開戦にでもなっては国の財政が堪らない、何も一日を争って朝鮮を獲るには及ばない、と言うような意見も持っていた、何時も内閣のゴタゴタは大蔵省が原因になっていた位である。

 芝濱の延遼館、今の横浜御殿に置いて、大蔵省の会議が開かれた時。海陸軍の長官と外務卿の副島が出席して、第一に朝鮮の問題が話題になった、副島の意見では、

『如何も今日と相なっては此の儘放棄することは出来ない、国の面目としても斯う交渉の面倒になった以上、何とか談判の結局と言うものがついて居ないと、外国へ対しても甚だ宜しくない。是非進んで最後の掛合に及びがたい、自然とその状況で兵力の機分は必ず要するであろうから、今からその覚悟はしてもらいたいものじゃ。』

 副島の意気は実に盛んなものであった。もう兵力に由って問題の解決をする外はないと見ていたのだ。井上は、

 『副島さんの仰せに由ると、朝鮮を兵力で圧するというような議論に聞こえますが、それは甚だ宜しくないと思ふ、掛け合うだけ掛け合ってどうしても相手が解らないというなら、解るまで待っていても宜しいじゃないか、今我国が朝鮮を征服しなければならぬといふ理由もないのじゃから、盡すだけ盡しても如何というなら一時放棄しても可いのじゃ、第一に恐るべきは其の費用である、それは如何するお考へか。』

 『費用は大蔵省で出せば可い。』

 『イヤ、そりゃ不可(いけ)ません、大蔵省には中々そんな気楽な金はない。』

 『大蔵省が、内閣が決めたことを制するといふ不法は出来ない。』

 『拙者が大蔵省を預かって居るうちは、何としても朝鮮征伐費用は出せませぬ。』

 

 癖の強い井上と頑固な副島と顔の色を変えて争っている。

当時の役人は未だ武士らしいところがあって、どんな大官でも組打ち位は行ったのだ。

 この席に、海軍大輔の勝安房がいたから面白い、勝の仲裁で、その日は一時預かりということになって無事に済んだ。

 これが明治五年の暮れで、気の早い人は春の支度に忙しいときであった。 

 

八   1302

 

 一口に外交というても、それが中々難しいのである。戦争をするよりか外交の難しいということは、日本の国民はよく感じていると思う、明治政府が組織してからすでに四十余年にもなっているが、それでさへ未だ外交では失敗を続けて居るのだから、全く難しいものに違いなかろう。而して見ると四十余年も前の外交のまずかったことは固より当然のことである。人物ぞろいということは表面から見れば立派なものであろうが、実に有難迷惑なものだ、一人だけ偉くて其の他は凡物の方が却って仕事は手際よくできるものである。あんまり偉いものばかり集まっては知恵の衝突で事の運びは存外悪いものだ。

 朝鮮問題にたいして明治六年の内閣が、あのようにつまらないものになったのは、参議の椅子に在る人が何れも首領株の偉いものばかりで在った為に徒な議論のみを、交渉の長引いて事の運びが悪かったのだ、終にはこれが原因となって内閣の大破裂を来たし、それからの日本国の損害というものは実に尋常ではなかった。これに反して、朝鮮政府は凡物揃いであったが、たった一人、大院君という傑物があった。無上の権力もあって、少しルールを外れていたが、立派な見識もあって、思いのままにドシドシ遣りまくる。前後を顧みて逡巡するというようなことはしない。

 また誰一人として大院君の為すことに反対する者もいない。従って、結果は如何あろうとも、考えたことは素直に行う事が出来るのだ。日本と朝鮮の事情にこれだけ相違があったのだ。従って表面の事績のみを見ると、全然軽視されているようなものである。また実際は馬鹿にされて居たには違いない。

 花房の一行が日本へ帰った跡は、広津権大録の一人舞台である。併し、ただ残されているというだけの一人舞台事件の進行には何等の関係もないのだ。されば朝鮮政府の暴状は日に益々甚だしくなるばかりで、第一は草染における倭館へは、一切の物を供給しないということを通告して、食料責めを始めた。第二は自国の娼妓に対して日本人へ売淫することはならぬという布告を出した。こんな面白いことが、彼の国にあろうか、植物と女を禁じてサァどうだというのだから、ずいぶん奇抜な外交しあったものだ、それから第三の水軍調練というのは容易ならぬことだ、草染釜山沖合で水軍の大演習を行うというふうであるから、思い切った脅迫をしたもんだ。

 『日本国から近日太兵を差し向けて我が国を攻めるというから、その準備としてこの大演習を行うのである。

 こういう乱暴なことを言われて眼前で大演習を行われるのだから、在留の日本人としては癇癪の蟲が収まらんのも無理はない。けれども本国政府から伝令書なるものが発表された。

 

 

 その大要は、『日本が三百年の習慣を破って、勝手に談判してきても到底駄目である。我が国で貿易を許したのは、対馬であって二本政府へ許したのではない、今更に何を言うても俺のほうでは知らないぞ、今後日本人には一物を売ることはならぬ。』というものであった。森山もこれまでに状況が迫っているとは思わなかったので、この上は如何とも手の付けようがないから、やむを得ず此の伝令書の写しを持って日本へ帰ってきた。世間の所謂征韓論なるものは之から序開きになるのである。

 

九   1305

 

 森山が帰って来た時は、副島外務卿は台湾の問題で清国へ派遣された後で、外務小輔の上野啓助が代理をしていた際であった。

 森山は上野に在って朝鮮の窮状を詳しく述べた。この上は、尋常の手段を以て問題の解決は出来ないという次第を、例の伝令書で迄出して大に論じたのである。此処に於いて外務省の議論も、外務省だけの問題ではないと云う風に決着して、上の正院へ出頭し、諸参議の前に外務省の見込みも自分としての意見も縷々陳述に及んだ。その結果が追々内閣会議を開くことになった。

 

 当時、内閣に列した参議は、西郷隆盛  板垣退助 大隈重信  江藤新平  後藤   大木 の六人であった。

 先ず第一に発言したのが板垣参議であった。『今日までの成り行きと、森山の報告に由って深く之を考えるに、朝鮮政府は全く戦意あってのことであるから、我が政府は之に応じて開戦するや否や、先ず之を定むるというのが第一じゃと思ふ。それについては、外務卿の副島君も、目下不在の折柄である故、今直ちに之を定めるという次第にも相成るまいが、此処に、差し当たっての事は各地に彼地に在留の日本人を如何にして保護するか、之が大切な問題である。

 朝鮮政府既に戦う意ありとすれば、今後如何なる乱暴を為さんとも計り難い。由って、まず居留民保護の手段として、一大隊の陸兵隊を釜山に送って、万一の変に備えると云うことが、焦眉の急であろう思ふ。現に我が横浜にも、英仏二国の頓兵が居る。いずれの政府も自国民の保護を為す手段としては此の外に良作はあるまいと存ずる。直ちに之より出兵して保護の準備を尽すのが急務であろう。擧王までの成り行きに関する談判の如きは、外務卿の帰朝を待ってからでも遅くは在るまいと思ふ。意気軒昂、都合に由っては拙者が兵を率いて行くも、可しという様子が歴々と見える。

 『イャ、そりゃいかん不可よ。』

 平生沈黙を守って、容易に口を開かざる西郷は斯く言うたのである。

 『何故、出兵は不可ですか。』

 『さァ、その事じゃ、おいどんは不可んと思うのじゃ、朝鮮政府の無礼な最初からじゃからな、今日まで堪えて、兵を出すのは相手の罠に堕ちるようなものじゃよ、そいよりや、誰かまァ一度遣るのでごわすな、出兵な、そいからでも可か思ふが、どうじゃろうか』

 『吾輩の出兵は開戦の為ではないのじゃ、居留民の保護が目的じゃ』

 『併し、兵隊な戦争するもんでごわすからな』

 『それでは居留民の保護はどうするつもりか』

 『そや、心配要るまい、手を出さんで控えているものを討つこともあるまいが、万一あったら其時のことじゃ、つまり、今までの役人は下級のものでごわしたからな、幾分軽く視たかもしれんよ。今度は御互いのうちで誰か行くことにするのじゃ。釜山当たりの小役人を相手にならんからな。直ぐ京城へ乗り込んで至誠堂々の談判を開き申すのじゃ。戦うも、戦わんも、それからでごわすよ。』

 西郷の考へでは内閣の班に列する者を送って、直ちに朝鮮政府の大官と膝詰の判断を開こうと云うものだろう。併し、野蛮な朝鮮政府へ此の流義を用いようというのは、頗る危険なものであるが、西郷には少しも左様な考へはないのだ。自分の方から情義を以て責めれば、相手の方でも又情義を以て迎えるものである、と、ちゃんと決めているのだ。其処が西郷の偉人たる所以である。

 

 三条太政大臣は温厚の人で在って、到底国家の大問題を料理するというような、手腕のある人でもなく、朝鮮に対する政策が斯う難しくなってきた場合に、事故の見識を以て英断を行うというような、左様いうことのできる人ではなかったのだ。

 只文久の昔から引き続いて王事に勤め、九州のはてまでも漂浪して正直によく働いたという迄のことである。併し、覇気も圭角もないすこぶる円満音量の人物で何処となく長者の風があって、それが三條卿の取柄であった。

 西郷の節をじっと聞いて居たが、どうも不安にな堪へぬと思ったか、『西郷さんの、言はしゃるのは、朝鮮の朝廷と直接に談判をしなはる、という言はしゃるのやのう。

 『左様でごわす。』

 『それから大使には我らのうちで誰か行こう、という言はしゃるやのう。』

 西郷は軽くうなずいた。

 『それならば我らもよいと思うが、その大使となっていく人には、板垣はんの言はしゃる通り護衛として兵隊を連れて行かんことにゃ、どないな危ないことの出来るやも知れんでな。』

 『そや、如何よ。』

 『如何、ははア。』

​ 『板垣参議の議論のように初めから征服する覚悟なら、軍艦も兵士も必要であろうが、おいどん、な考えは修好大使を派遣するのじゃから、大使の派遣に軍艦や兵士は穏やかで無か思ふ、あくまでも礼を盡し辞を低くして、只天地の正道を踏んで懇談を遂げたなら、そいで可かと、おいどんは思ふのじゃ。』

​ 『西郷さん、貴君はそないに思やはっても、先方が解らんのやから、万一に乱暴な働かれては一大事に由って、兵隊だけは連れて行きなはったら、どうやろうか。』

​ 『至誠を以て事に当たるのでごわす、侵す心は無か、そりゃ勿論のこと、侵される考えあって之に備えていくようでは、そりゃ至誠を欠いて居るのじゃ、乱暴な働きあれば殺されるまでのことことじゃ、討つも討たれるも、それからのことでごわす、人間の力では防ぐことはできん、只天でごわすよ。』

 例えば朝鮮政府にどんな心があろうと、そりゃ此方では構わぬ、正々堂々と至誠を以て之に対するのだ、若し大使が襲われたら何もやむを得ないが、平和の天使が兵隊を率いて凶器を携えて行くのは宜しくないといふのが、西郷の主張である。

 この心を以て天下万人に対するのだ、如何なるものも感化されて仕舞うのは無理はない、出兵論を主張した板垣参議は、例の謹厳の態度に荘重なる口調を以て、

 『吾輩は西郷参議の意見に従ふ、出兵論は自ら撤回することにする、大使となって至誠に当たるというものが兵士を率いていくのは宜しくない、吾輩は居留民の危険を思ったので出兵を必要と考えてが、この場合内閣の議論が分裂しては面白くないから、吾輩の出兵論は撤回することにする。』

 若し、西郷と争うものがありとすれば、板垣参議が之に当たるべきはずであるのだ。その板垣が潔く自説を撤回したので、他に議論の起こるべき事情はないのだ。三條は反対したわけでは無いのだ。懸念の余り注意しただけのことであるから之も黙ってしまった。

 此処に於いて、大使派遣のことは先ず反対はなく内決したようなもので、その日は済んだのであるが、この席に大木、大隈の二人の参議も居て更に可否のことは言わなかったが、反対もしなかった。それが後日になって反対したのは実に不思議なことである。

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