◆上野公園銅像の由来
明治維新において官軍の参謀西郷隆盛と勝海舟が会談し、江戸城が無血開城されて、江戸は戦火をまぬがれ江戸100万人の財産、人命が助かりました。
その後、明治4年~6年の間、実質、西郷内閣の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、採用され、近代日本の礎を作りました。
その後、西南の役で悲劇の人生を終えられましたが、明治22年明治天皇より正三位を追贈された、故吉井友実同志と友にはかり、西郷さんの偉大な功績を銅像を建立してその由を後世に残すために立てられました。
明治31年除幕式には時の総理大臣、山県有朋、勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われました。
◆ 上野公園銅像除幕式
明治31年12月18日、(西南の役より、21年後)
当日、公園入り口には紅白の国旗をひるがえし、式場を銅像の周りに設け、憲兵、巡査等これを警戒して、午前九時頃より、来賓続々として来たり、10時より建設委員長樺山伯お報告あり、次に除幕委員長川村伯は、南は西海台湾、北は北海道より祝辞を頂き又多数の臨席を得たるを謝し、翁は実に自愛に富、義に厚き人なりき、故に本日の盛典を見るに至りしは翁が盛徳の致す所なりと延べられた。
次に山県総理大臣の祝辞あり、次に勝海舟伯爵に代わり川村伯爵は勝伯爵の和歌を朗読し、尚、昔江戸100万人の市民が戦争の被害に合わずに住んだのは全く二勇(西郷、勝)の力なり、今や幽明(あの世とこの世)処を異にするも両雄一場に会す、勝伯爵の心事深く察すべしものと述べられた。
この時、西郷公爵(従道)令嬢の手によりて、幕が開かれたり、その銅像、右手に猟犬を携え、左手に短刀の鞘を押さえ・・・・犬を引きウサギを追う・・銅像の周りは鉄策を持って巡らし銅像は御影石の基台座の上に立てられ基台に下記の誌刻まれる。
この時楽隊は楽を奏し、場内は拍手喝さいの声枠が如し、次いで来賓宮崎誠一郎氏の挨拶あり、・・・・・・
◆西郷隆盛銅像の碑文
西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあれば、復、賛述をすべし。前年、勅により、特に正三位を追贈される。天恩、優渥に、衆、感激せざる莫し。故、吉井友実同志と興に謀り、銅像を鑄して、以って追慕の情を表す。 朝旨ありて、金を賜り費に佽し、資に捐ず。此の擧に纂ずる者二万五千余人。明治二十六年に起工し、三十年に至りて竣る。乃ち、之を上野山王台に建て、事の由を記し、以って後に傅ふ。
◆ 樺山伯委員長報告文
贈正三位西郷隆盛君の銅像建設成るを告げ本日除幕式を行なうにあたり、建設の顛末を述べ諸君の清聴をわずらはさんと欲す。
明治22年2月11日憲法発布の盛典が行なわれるに際し、朝廷君の手柄に対して特に正三位を贈られる。
朝廷の思し召しに皆感激しない者は無く、芝公園弥生社において祭典を執行して、故吉井友実君、主として君の遺像を建設することを提案して、参会者一同皆賛成して、銅像建設委員会を設ける事にして樺山輔紀にその委員長を委嘱され、その利11月趣意書を作成して融資者の賛同を求める。
爾来続々四方寄付の申込あり、又、宮内省より特に五百円を下賜せられ、前後寄付者二万五千余人、金額三万二千余円に至り、建築工事一切之を男爵九鬼隆一訓と謀り東京美術学校に委託して校長及び校員皆終始懇篤(手厚く大事に)に取り扱われた。
その工事費は二万五千九百五十円也。
建築の知は最初宮城外の広場に許可を得たりしたが都合ありて之を撤回して、更に今の知に定めて許可を得る。
銅像の設計図は当初苦心(最初は軍服姿)を極め、その為に延び延びになったが、ついに今の姿に決定した。
之即ち君が平成好む山野で狩りをする姿に、その超凡、脱俗のおもむきを示したり。
模型彫刻・高村光雲氏 鋳造・岡村雪馨氏 台座工事・塚本靖氏が主任にあたり。
建設の概略上に述べるの如し輔紀幸いに卿の結果を見るには、宮内省の恩賜と有志者多数の寄付ありて費用に窮する事無く、且つ工事に関し諸君の容易懇切技巧成熟により成功に至る。
誠に感謝に堪えざるなり、若しそれ金員収支の詳細に至りては精算をしたる上更に明細書を報告する。
目下の計算によれば若干の余剰金が生ずる見込みあり、この余剰金は慈善事業に寄付することを望む。
之君(西郷)が平生慈愛の志を身に付けており、以ってこの処分をなさんとするなり。
寄付者諸君のあらかじめの了解を頂ける様併せて此処に希望を述べる。
勝海舟の祝歌
咲花の 雲のうへ野に もゝとつとふ
いさをのかさみ たちしけふかな
君まさば かたらむ事(こと)の さはなるを
なむあみだ沸(ぶつ) 我(われ)も老(お)いたり
福羽美静翁の祝歌
西郷隆盛英士の銅像の前に
国のためにつくし、国のためにつくし
猶々(なほなほ)と おもひし君(きみ)が
心(こころ)尊(とほ)とさ
来会者約八百余名、山県有朋(総理大臣)、西郷従道(内務大臣)、大山巌(侯爵)、田中不二麿(元司法大臣)、芳川顕正(逓信大臣)、山本権兵衛(海軍大臣)樺山資紀(文部大臣)、青木周蔵(外務大臣)等大臣、黒田清隆(元総理)、勝海舟(伯爵)、上方諸(伯爵)、福羽美静(伯爵)、谷干城(伯爵)、榎本武揚(伯爵)、伊東(伯爵)、九鬼(伯爵)、渡辺(伯爵)、仁礼(伯爵)等の諸大臣その他に、海陸軍人最も多く、また、維新前に翁と親交ありし英国公使アーネストサトウ氏が臨場ありしは、更に感を深からしめたり、散会したのは午後12時頃。
◆ 銅像の由来
最初は四分の一の原型、陸軍大将から狩りの姿に、あの四メートルの大きなものはいきなりはかかれません。最初の原型、思索は4分の1、1メートルくらいです、素材は赤味の桜の木ですが、バケツを逆さまにしたようなシャポをかぶった陸軍大将の西郷さんの首ですが、どうしてこんな帽子をかぶっているのかと聞いたところ、伊藤博文が沿う主張し、第1回の試作品をしたとの事、ある時工場に樺山海軍大臣が来て、西郷はふだん着で山ヘに行く、あの姿が南洲そのものにおもう。
◆ 冷めし草履に木綿袴の西郷隆盛
その頃の太政官役人の威張りようといったらすごかった。何しろ薩摩、長州、土佐、の田舎侍が事実において天下を取ったのだから滑稽なほどであった。何のために我々町人は生まれてきたのだろうかと思った。(大倉翁談)坊主が役人に虐められたのもこの頃のことだ。神信心の公卿度もが上に立ったものだから、この際坊主を叩き潰せという剣幕で神仏分離などという事を始めた。(戊辰95)
太政官の大官は大名のような考えを持っていた。参議の如きは道のりが半丁あろうと、一丁あろうと警部二人、巡査十名に護衛されて繰り出した。欲にいわゆる大隈重信参議の築地の梁山泊と言うのは死んだ戸川残花翁の先代戸川播磨守の屋敷であった。
私の知っている西郷隆盛はその頃、神田橋に居た、西郷の家に書生をしている友達を訪ねて行くと「君は西郷を見た事があるか」というので「ない」と答えると友達は「あれから来るのがさいごうさんじゃ」と指差したのを窓からのぞくと一人の男が若者を連れて門からブラブラ遣ってきた。
木綿の羽織を着て刀を指し小倉のような木綿袴をはいて、しかも冷めし草履を引っ掛けておる。顔かたちは上野の銅像そっくりの印象が残っておる。
(金子堅太郎子爵、枢密顧問官、七十七才)戊辰物語