西南戦争における薩軍の大義
私学校が上京の準備に取り掛かっているらしいことを密偵からの情報で知った大久保利通は、これを政府に対する挙兵の準備と受け取ってしまったのです。大久保は早くから私学校を眼の敵にしていました。
大久保は私学校暴発を前提に準備を進めます。その結果、私学校徒による武器弾薬庫略奪事件や私学校幹部に対する刺客派遣の疑惑発覚などの悪い事件が重なり、大陸政策提議のための陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題に対する尋問という名分にすりかわってしまったのです。
これは政府の不正に対する尋問の行動であって、即挙兵というわけではありませんでした。これが挙兵になったのは、陸軍大将名義で薩軍上京の目的を通知してあったにもかかわらず、県境を越えた時点で、熊本鎮台兵が攻撃を加えたからです。それが薩軍の側から見た応戦-開戦の理由でした。ここで薩軍の行動の大義が明確になるのです(-④)。
薩軍出発の直前に南洲翁に面会した鹿児島県令・大山綱良は、この時、薩軍上京の理由を翁自身は次のように語ったと、後の政府の尋問に答えている。
「西郷より自分(大山綱良)に語って曰く、
『先年拙者とも東京を引き取る時、既に兵隊のもの、大難を起こし、戦にも及ばんとする勢いにつき、右の人数を連れて、直に御暇を願い、帰県し、その以来今日まで、人数を纏め居りし拙者の旨意は、何れ近年の内には外患起るべく、然るに日本今日の形勢にては、とてもその防禦を為すこと能わずと見込に付き、その節に当っては、右兵隊のものを以て、国難に報ずる素志なれども、最早今日の場合に至りては、事情切迫するに付き、已むを得ず、右兵隊のものを引率し、上京の上、大久保へ対決し、自分の見込み政府において曲なりと見認めらるれば、甘んじて罪を受くべく、何分大久保へ面会の上ならでは、その曲直も分かり難く、且つ大久保においては、何の謂れを以て、隆盛は事を起こすならんと見込みたるや、その辺も詰問すべく、一体大久保は足下承知の通り、幼年より一家親子同様の交を為したるもの故、拙者において疑いあれば、上京を申し越すか、また自ら帰県してその事情を談ずるか、また委しき書面にて差し越すべき筈なり。』」
下線部のような素志を懐いて、鎮まっているところに、ロシアとトルコ開戦の報を得れば何らかの行動を起こすはずだろう。前回紹介した谷口登太の証言はそれを窺う上で大変貴重な史料だ。大山の口供にある南洲翁の発言には、卒兵上京の準備に取り掛かっていた事は触れられていないが、この時点で、政府に対して挙兵の意図を全く持っていなかったことがわかるだろう。あくまでも尋問のための上京であったことは、その他の史料が証拠立てている。
もちろん私学校幹部の多くが、戦争になるものと見込んでいた。だから、捕らえた工作員達を、出陣に際して、全軍の目の前で血祭りに挙げよう、との議論が起こったが、翁は「不日東京に着せば、政府に対して証拠となる故、切るべからず、県庁に托すれば可なり」と言って、これを押し留めたのである。これは私学校幹部の一人、河野主一郎の回想談にある。
さらに翁は、もし鎮台兵が上京を遮るようなことがあれば、「打ちて通るべし」との指示を与えている。ここでようやく開戦である。
事実、熊本県庁は薩軍の通過を遮ると共に、熊本鎮台は二月二十一日、越境した薩軍を奇襲し、薩軍はこれに応じた。
そこで、南洲翁は次のような文章を、政府にではなく、征討軍総督にして皇族の有栖川宮熾仁親王に送るよう、県令・大山綱良に依頼している。これが二月二十八日頃の話である。薩軍側の主張をよく読んでいただきたい。
「今般陸軍大将西郷隆盛外二名上京の次第は、兼ねて御届け申し上げ置き候通りにて、既に去る十五日当地発程致し、尤も通行に付いては、先に各府県各鎮台へ通知致し置き候処、熊本県においては未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさえ)通り筋川尻まで押し出し、砲撃に及び候旨、追々報知これあり、実に意外の次第に立ち至り候。
然る処彼の地へも去る九日(十九日の誤り)当県征討の命仰せ出され候やに相聞こえ、何とも恐れ入り奉り候。然しながら西郷隆盛儀は先般辞表差上げ以来(征韓論政変後の帰郷を言う)、県下厳粛に謹慎致し、且つ数万の士族輩自費を以て学校を開き、忠孝を重んじ、諸生を教導し、第一方向を誤らざる様、勉めて説諭し、既に佐賀の暴動、引き続き熊本・山口同断の節、県内安静、終に一毛を損なわざるは、全国に明瞭なる事に候処、何等の御嫌疑これあり、容易ならざる国憲を犯し、暗殺の内諭を下し候義、実以て人民一同疑惑罷り在り候。もっとも随行の者共、銃器帯刀を以て途中保護の儀は、暗殺を命ぜられ候程の者、異儀なく上京相遂げざるは勿論の事にて、止むを得ず、下官(大山を指す)においても聞き届け置き候。
就いてはいよいよ当県征討仰せ出されるの上は、県官且つ土民に至るまで、御征討の御旨趣に在らせられ候や。それに無名の恥を蒙らせ候ては、鹿児島県人民といえども、皆王民にして政府の命令を奉ぜぬ者一人もこれなく候えども、何分士族挙って動揺に立至り候間、至急御勅諭成し下され、最も西郷大将の趣意も貫徹致し候様、御処分下されたく、この段愚誠を以て願い奉り候なり。」
確かに、ここに至った経緯を慎重に見ていくと、国憲をことごとく破ってきたのは、それを制定する側の政府であった。
まず、明治六年の征韓論に関する正院における討議において、いわゆる非征韓派は、その内治優先論を完膚なまでに論破され、最終段階では、公正な決議を求めて、中心人物である翁自身が欠席して諸参議に採決を委ねたにもかかわらず、いわゆる征韓派の勝利に終わった。翁の大使派遣論が通ったのだ。大久保は辞表を提出し、岩倉は病と称して引きこもってしまった。
しかし、いざ上奏の段に至って、太政大臣である三条実美が病に倒れたため、大久保の秘策によって、岩倉が代理として奏上を行うことになった。ここで、岩倉は、三条の代理として、閣議の結果をそのまま奏上すべきところ、自分の意見が反対だから、両方の意見を奏上して聖断を求める、と言って、頑として譲らなかった。いわゆる征韓派の参議は、この岩倉の不公正な態度に抗議して辞職を申し出た。
しかし、実はもっとあくどいことが行われたのであって、岩倉は、大久保の入れ知恵によって、自分らに有利なように、西郷以外は最終的に全員岩倉らの説に賛同したかのように、閣議の模様について偽りの奏上を行っていたのである。驚くべき不敬・不忠にして、不正である。
もちろん、このことは大久保と岩倉ぐらいしか知らない。
その後、薩摩に帰省した南洲翁の子弟らは、翁が先の文章で主張しているように、自らを戒めて国憲を犯すことはなかった。
一方、大久保らが、自説を反故にして、内乱を誘発したのみならず(佐賀の乱、萩の乱)、外征(台湾征伐、江華島事件)を実施し、国憲を破った。
武器弾薬庫襲撃事件にしても、最初に国憲を破ったのは、鹿児島県庁との間で、運び出しの取り決めがあったにもかかわらず、それを破って、闇にまぎれてこっそりと運び出した政府の側である。
襲撃がそれで正当化されるわけではないにしても、私学校側を心理的に追い詰めていったのは、私学校に猜疑の目を向け続けた政府の側であったことは間違いない。
さらに襲撃事件とほぼ同時に、私学校幹部暗殺疑惑が浮上した。私学校徒の激昂は頂点に達し、事態は切迫したわけだが、南洲翁はあくまでも上京・尋問という筋のある態度を崩さなかった。
ならば単身での上京こそ筋であろうと言う人がいるかもしれないが、暗殺を企てるほどの政府ならば、護衛が必要となってくるのは当然である。政府が自ら制定した法を破り、国民としての義務を果そうとする忠良なる国民を抹殺しようとするなら、国民はどうやってその不正、暴威から身を守ればいいというのか。自らの力でこれを守るしかないではないか。
もちろん、そういった状態がいいというのではない。むしろ、だからこそ、政府は自ら制定した法を、厳粛に守らないければならない、と言いたいのである。
大久保や岩倉には、この遵法精神が欠けていた。主張が通らぬたびに、思い通りにならぬたびに、法を犯した。これは政府の私物化である。
それでも、一私人が万以上の、武器を携えた兵隊を引き連れて、天下の公道をのし歩くなど不届き千万である、という人もいるかもしれない。しかし、そういった人に抜け落ちているのは、次の事実である。
征韓論破裂時、辞職した南洲翁に与えられていた陸軍大将の地位をそのままにしたのは、政府、なかんづく大久保自身である。 彼らが征韓論破裂直後に出させた勅諭が次の通りである。
「西郷従三位病気に付辞表の趣ありて参議・近衛都督等差免じ、尤も大将旧の如く申し付け置けり。元より国家の柱石と依頼致すの意において渝(かわ)ることなし。皆々決して疑念を懐かず、これまでの如く職務を勉励せよ。」
政府は鹿児島に張り巡らした密偵網により、南洲翁が鹿児島不在で弾薬庫襲撃に関与していないことを把握していた。にもかかわらず、疑念を懐き、これを討つ準備を進め、さらに襲撃したことは、この勅諭に違反している。
これに対し、南洲翁は陸軍大将の資格で、諸官庁に上京の趣旨を通知した上で、兵を引き連れ、尋問のため上京しようとした。翁が勅諭の内容を知っていたかどうか知らないが、少なくとも勅諭に適った行動だった。法理として勅命違反がどちらであるかは明瞭だろう。
翁は、大久保らが制定した国憲に忠実に行動したのであって、その逆ではなかったのだ。それが先の有栖川宮に対する弁明の文章に現れている。
しかし、政府は更なる攻撃を加え、三月四日には、田原坂の激戦の火蓋が切って落とされた。先頭に立って軍を指揮していた、翁の右腕の一人にして、陸軍少将の篠原国幹が戦死したのもこの日である。
政府の意図がいよいよ薩軍を殲滅することにあると確信したらしい翁は、激しい怒りを込めて、政府の態度を弾劾する文書を書いている。
宛先は再び征討将軍宮である。
「今般陸軍大将西郷隆盛等、政府へ尋問の次第これあり出発いたし候処、熊本県は未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさ)え川尻駅まで(鎮)台兵押し出し、砲撃に及び候故、終に戦端を開き候場合に立ち至り候。
然る処、去る九日には征討の厳令を下され候由(実際には二月十九日)。
畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾この事と存じ奉り候。殊に万国に対せられ何等の名義相立申すべきや。譬え政府において当県の人民は誅鋤(ちゅうじょ)し尽さるとも、必ず天地の罪人たるには疑いなく候えば、先ず政府首謀の罪根を相糺され、その上県下の人民暴激の挙動これあり候わば、如何様共厳罰在らせらるべき御事と存じ奉り候。
この時に当り閣下(征討将軍有栖川宮)、天子の御親戚に在らせられながら御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽くさるべき処、却って征討将軍として御発駕相成り候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候。よって口供相添え進献仕り候。誠恐頓首。」
下線部について、『西郷隆盛全集』(大和書房)の解説でさえ「天皇批判の言辞」と読み違えているし、維新史に詳しい勝部真長氏などは、その著『西郷隆盛』で、「後鳥羽上皇を島流しにした北条義時といえども、こんなことは言っていない」「西郷にとって、今や三条・岩倉・大久保などは問題ではない、天子を相手にして物を言っているのである。おそらくわが国歴史上、空前絶後のこれは朝敵・逆賊の出現であった。」とまで大げさに言う。
しかし、これは誤読以外の何物でもない。
これまでの文脈から見て、翁の批判の対象が、三条・岩倉・大久保を中心とする政府であることは明らかだ。現にこの前文では、政府がますます罪を重ねていると述べており、それに続けて、恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾である、と言っているのである。つまり、これは天子が征討を私物化していると天皇を非難しているのではなく、本来なら公正なものであるべき天子の征討が、政府の私物化するところとなっている、という批判なのである 。
かつて参議として閣議に列席していた翁は、この征討令がどのような経緯を経て発せられたのかを熟知している。それは明らかに天皇の聖断という鶴の一声によって為されるのではなく、閣議という、優柔不断な三条を筆頭に、違法行為を為してとんと省みることのない岩倉と、大久保及びこれと同類の参議連らによって決定されている。
天皇が維新の元勲らの合議の結果成った決定を自発的に拒否するということはまずありえない。だから天子の征討とはいっても、実質的には政府の意図に基づく征討である。征韓論政変で、現政権の顔ぶれの為すことを嫌というほど見せつけられ、これに見切りをつけた翁がこう考えるのは当然である。
だからこの文書は、宮さまへの諫言という形を取っている。
政府はこの有様であるから、これを直接非難したところで仕方ない。しかし、宮様は皇族で在らせられる。政府の失徳に加担して、天子の征討を、御皇室の名を汚されるな。これは情理を尽くした忠諫と言っていい。
この諫言書の原文には、大山綱良宛ての文書が添えられてある。
「福島勇七(大山よりの使者)到着にて長崎表の事件委しく承知致し候(長崎では二月二十日鹿児島県人十数名が捕らえられていた)。然る処長崎県より征討の電信を以て御達しの趣これあり、御承知の段御受書差し出され候趣相見え候に付き、幸いの事に候間、長崎県へ御託し相成り、征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。この上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居(す)え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜しく願い奉り候。この旨早々福島氏帰県致させ候なり。」
つまり、この諫言を読んだ上で、それでも宮様を押し立てて攻め込んでくるなら、打ち据えて罷り通るまでだ、というのである。凄まじいまでの怒気だが、これが義憤であることは諫言書を読めば明らかだろう。怒気は諫言書の語勢に現れている。
『丁丑公論』において、南洲翁を弁護した福沢諭吉は、薩軍の挙兵の理由に付いて、次のような批判をしている。
「西郷が、政府に尋問の筋ありとは、暗殺の一条を糺さんとするの趣意か、はなはだ拙なるものというべし。暗殺の真偽もとより分明ならず、たとい実にこの事ありとするも、この一事を糺すを以て兵を挙ぐるの大趣意とするに足らず。兵を挙げて政府に抗するならば、第一薩人たる人民の権利を述べ、したがって今の政府の圧制無状を咎むるのみにして、暗殺のごときは、これをいわずして可なり。もしこれをいわば他の実事を表するの証拠として持ち出すべきのみ。後世に至って明治十年の内乱は暗殺の一条より起りたりといわば、恰も乱の品価の賎しきものにして、世界中に対しても不外聞ならずや。西郷も必ずこれを知らざるには非ざるべしといえども、ただ血気の少年に迫られてついに些末の児戯を喋々するに至りしことならん。これまた制御の不行届きというべし。」
しかし、南洲翁の征討将軍宮に対する諫言書の次のくだりを、もう一度引用するのでよく読んで欲しい。
「この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。」
これが薩人たる人民の権利を述べ、今の政府の圧政無状を咎めるものでなくてなんであろう。暗殺はその証左の一つとして述べられているに過ぎないのである。すでに述べたように、尋問は、卒兵上京の名分に過ぎなかった。応戦して初めて、形跡としては挙兵と相成ったわけだが、薩軍の側からすれば正当防衛であったのだ。
その開戦後の諫言において、南洲翁は薩軍の正義を述べている訳だが、それは、皇族への諫言に止まり、天下へ公表されることはなかったというだけであって、福沢の批判には堪えうるものであった、ということになる。
この点については、むしろ「唯身ひとつをうち捨てゝ、若殿原に報いなむ」と詠んだ勝海舟の方が、肝胆相照らす仲であるはずの西郷南洲の戦いの意義を見損なっていたことになろう。
以上長々と解説を加えてきたが、この稿の趣旨は、引用した史料をよく読んでほしいという事に尽きている。西南戦争に対するより深い理解を求める方は、拙著『(新)西郷南洲伝』下巻(高城書房)に書き尽くしているので、そちらのほうをお読みいただければ幸いである。
稲垣秀哉氏のブログより掲載
西南戦争と三菱
西南戦争と三菱
薩摩の強さは近代銃の製造工場を導入、稼動させていた事実,明治9年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている[1]
陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。
火薬庫襲撃事件
連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。*この弾薬略奪事件を演出したのは大久保利通、大山巌ら薩摩藩近代派の、西郷一派への挑発でもあった、旧武士階層の体制的崩壊を作り出すこと。
西南戦争の戦費と不換紙幣の発行
さらに西南戦争の戦費が重くのしかかる。殖産興業政策を推し進めてきた明治政府はこれまで積極財政を取っていたため、毎年おおよそ4000万円~5000万円の歳入に対して5000万円~6000万円の歳出という赤字財政を続けており、さらに戦費は4200万円の不換紙幣を発行することで賄っていた。そのため明治十一年以降紙幣価値の暴落、物価の急騰という急激なインフレに見舞われることになった。
明治維新の最初の最大の政商、三菱商会
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
*ロンドンロスチャイルドが英仏戦争で、英軍敗北のウワサを流し、その前に、英国債を買占め、その直後に英軍大勝の報が流され、買い占めた英国債で暴利を得たことと良く似ている。
*竜馬暗殺に弥太郎は深く関係していた、巨額の暗殺資金の一部を負担した?この暗殺実行責任者が田中忠顕であり、田中と弥太郎の関係はこれから田中が死去するまで、三菱首脳が引き継ぐことになる、*以上は、「日本の本当の黒幕」参照、
三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。
農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。
征韓論をめぐる政争の結果、西郷隆盛は、明治6(1873)年、参議を辞し鹿児島に戻った。
西郷たちが各地に組織した私学校は若い不平士族の拠り所になった。鹿児島県は地租改正も秩禄処分(ちつろくしょぶん)(注1)も行わないなど中央政府に反抗、あたかも独立国 のようだった。一方、高知では板垣退助らが自由民権運動を展開、反政府活動を活発化させていた。
明治7年以降、佐賀の乱、神風連(じんぷうれん)の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平士族の反乱が各地で勃発したが、とどめは西南戦争である。
10年2月、西郷が私学校の生徒1万5千人を率いて鹿児島を発った。めざすは熊本鎮台。九州各地の不平士族も合流し、総勢4万余。政府はただちに有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせることとした。
政府の助成を受けている三菱に対してはただちに社船の徴用が命じられた。兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送が勝敗を決するのだ。
「わが三菱の真価が問われる時が来た。…怯むな…」。彌太郎は幹部社員を集めて檄を飛ばした。「わしは東京で政府との折衝にあたる。石川、お前は大阪で兵站と配船を指揮せよ。川田、お前は長崎で、だ。彌之助は配船の現場に立て…」
政府軍の輸送船団
三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込んだ。全社をあげての取り組みは、総勢7万にのぼる政府軍の円滑な作戦展開を支えた。
(左)「東海丸徴されて西南征討軍用船となる」明治10年2月15日
政府へと徴用された東海丸は約2ヶ月にわたり品川、横
浜、神戸への軍事輸送に従事した。
(右)「官命あり、上海航船西京丸特に解纜の期を早め兵を載せて
西航す」明治10年2月19日 急な命令により、出航を1日早
めたり停泊の時間を短縮するなど当時の慌しい様子が記さ
れている。(三菱史料館所蔵)
西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂で敗走、宮崎県の各地を転戦して、ついに鹿児島の城山で最期を迎える。戦死者は双方あわせて1万人以上。まさに内戦だった。
意気盛んだった西郷の軍を、徴兵制軍隊が制圧した。もはや軍事力は士族の独占ではない。近代的な装備と編成、それに三菱船団の機動力がそれを実現したのだった。
この戦中、明治天皇は京都に赴き戦況の報告を受けた。7月末には政府軍の勝利が決定的になったので、神戸から三菱の社船広島丸に乗って東京に戻った。この時の明治天皇の御製
—(「千代の光」所収)—
「あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山」
後に三菱には金一封が下賜され、社長の彌太郎は銀杯ほか、航海のお供をした彌之助と石川には白縮(しろちり)1匹(注2)ほかを賜った。
この戦いでの彌太郎の立場は微妙だった。立志社を興した板垣は間もなく東京に戻ったが、高知の民権運動は活発化していた。即刻民選議院の設立が認められぬなら、西郷に呼応して武器をとるべしとの強硬意見も強かった。三菱の船を高知にまわせと迫る者もいた。幸か不幸か、鹿児島士族との連携がうまくいかず高知の民権派の蜂起は不発に終わったのだが、同郷の彌太郎としては辛いところだった。
西南戦争における軍事輸送は、国家の信頼を勝ち得るとともに、三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築いた。「国家とともにある」との信念を確固たるものにした三菱は、先に無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納した。のち、更に買い増して所有船61隻となり、わが国の汽船総トン数の73%を占めるに至った。
https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro16.html
不世出の英雄 西郷隆盛
西郷隆盛は不世出の英雄なり、予かって之を論じて言へることあり、曰く、『陛下は天授、人力の能く及ぶところに非ず』・・『天皇陛下は天から授かったものであり、人の力ではどうにもならない』その他に誰かと言えば、明治の天地、西郷隆盛ただ一人である。普通の人が、豪傑、偉そうに見えるのは大体、事業が成功して名前が売れてからであるが、西郷だけはそうではない。
● 島津斉彬は、門閥にこだわらず多くの家来の中から身分の低い西郷を重用した。
● 藩内の健児幼い時から西郷を畏れる。
● 薩摩を出て京都や江戸に出ると全国の志士達が皆西郷を敬う。
● 水戸の藤田東湖は、倣岸ごうがんでめったに人を褒めないが、西郷を一目見て惚れた。
● 豊後の小河一敏、
有志の士なり、文久の初、西郷と会った事を日記に書いて『始めて西郷に面会した時、その威風堂々、誰にもまねが出来ない胆略、このような人が今の世にいるとは思われない』と言った。
● 石見の福羽美靜子爵もまた、
立派な人だが、初めて西郷、大久保を見たときの感想を
私に語りて曰く、『美靜の千言よりも、大久保の十言を
行なうべきで、大久保の十言よりも西郷の一言を行なう
べき』と思ったとのこと。
● 慶應の末、
幕府の規則頽廃(たいはい)したと言っても、尚300年、15代将軍の威光あり、勤皇の公卿達から草莽の志士まで幕府が倒れるとは信じられず、このことで朝廷密かに西郷、大久保、小松、木戸、広沢等を呼んでその意見を聞く。
● 西郷は『勝算間違いなし、ただ天皇の決断を待つのみ』
大久保達は、『如何なる勝算があるのか』と心配する。
西郷曰く、『我々仲間は長年勤皇を唱え国のために頑張ってきたのは今日の為ではないか。今勅問に対して、天皇の決断を求めずして何をするのか』
明治維新の回天の大業は実にこの一言で決まったのである。その他、廃藩置県の件も木戸が提案したとしても、西郷の決断を待って始めて決定した事は、誰もが知っている事である。
●南洲逝きて茲に34年
即ち南洲の意気を学び、数年談論しその語を集めてこれを本にすると、南洲が恍々と我が目の前にいるようだ。南洲が生き返る事を其れ庶幾しょき(こい願う)す可き歟か、噫ああ 後の南洲其れ庶幾しょきす可き也。
明治43年『日南学人』
島津斉彬
薩摩藩第28代藩主、幕末一の名君、松平慶永、勝海舟も「偉い人だったよ」と語る。
藤田東湖
幕末の水戸学者・水戸藩士。広く全国の有志と交わって志士の間に信望を集めた。安政の大地震で江戸小石川藩邸官舎で圧死。
小河一敏
幕末勤皇の志士、慶応四年、大阪府から独立した堺県の初代知事に就任。大和川の洪水の際には独断で県民の救済につとめ、土木事業を起こす。また、堺県内に限って通用する小紙幣を発行して県民の便宜をはかるなど、公平至誠の精神で県政にあたった人。
『明治11年5月、大久保利通が紀尾井町で暗殺された事を聞いた小河は自宅で来客と話をしていた。しばらく息を忘れたように考えているふうであったが、やがて、―アア、天トイウモノハアルカ。といって長嘆した』
司馬遼太郎『歳月』より
福羽美静
幕末明治初期の国学者・神祇官僚。石州津和野藩士
元老院議員、貴族院議員、子爵、著書には『古事記神代系図』『人事百話』『国民の本義』その他多数。
明治31年12月18日上野公園で西郷隆盛銅像の除幕式において祝歌
西郷隆盛英士の銅像のまへに
国のためつくし 国のためつくし猶々なほなほと
おもひし君が心尊(こころとおとさ)