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勝海舟
- 西郷隆盛を称える先駆者の辞 -
幕府が倒れてからわずかに30年しか経たないにもかかわらず、歴史を完全に伝えるものが一人もないではないか。当時の有りさまを目撃をした古老もまだ生きているだろう。しかしながら、そういう先生は、たいてい当時にあってでさえ、局面の内外表裏が理解できなかった連中だ。それがどうして30年の後からその頃の事情を書き伝える事ができようか。いわんやこれが今から10年も20年もたって、その古老までが死んでしまった日には、どんな誤りを後世に伝えるかもしれない。歴史というものは実に難しいものだ。西郷はどれほど大きかったかわからない。高輪の一談判で、俺の意見を通じてくれたのみならず、江戸全都鎮撫の退任までを一切俺に任せておいて少しも疑わない。昨日まで敵味方であったという考えは、どこかへ忘れてしまったようだ、その度胸の大きさには俺もほとほと感心したよ、あんな人物に出会うと、たいていな者が知らず知らずその人に使われてしまうものだ、小細工や口先の小理屈では、世の中はどうしても承知すまい。『敵に味方あり、味方
に敵あり』といって互いに腹を知り合った日には、敵味方の区別はないので、いわゆる肝胆相照らすとはつまりこういうことだ。
明治10年の役に岩倉公が三条公の旨を受けて、俺に「西郷が鹿児島で兵を挙げたについて、お前急いで鹿児島へ下向し、西郷に説諭して、早く兵乱をしずめて来い」といわれた。そこで俺は「当路の人さえ大決断なさるなら、私はすぐ鹿児島へ行って、十分使命を果たしてご覧に入れましょう」と言ったら岩倉公は「前の大決断とは、大久保と木戸を免職しろという事であろう」と言われたから俺は、「いかにも作用でござる」と言ったら「それは難題だ、大久保と木戸は国家の柱石だからこの二人はどうしても免職することが出来ない」と言われたので「それではせっかくの御命令であろうとお受けすることは出来ない」といって俺は、断ってしまった。
ところが後で聞けば、このとき鹿児島では桐野が「旗揚げのことが政府に知れたら、今に勝さんが誰かの密旨を受けて、やってくるであろう」と西郷に話したら、西郷は「ばかをいえ、勝さんが出掛けてくるものか」と言って笑ったそうだ。どうだ、西郷は、ちゃんと俺の胸を見ぬいていたのだ、もはや20年の昔話ではあるけれども、これが本当の肝胆相照らすと言う事の好適例だ。
由井正雪でも西郷南洲でも、自分の仕事が成就せぬことは、ちゃんと知っていたのだよ。勤皇論ぐらいは西郷も知っている。だから戦争中も自分では一度も号令をかけなかったというのではないか、俺は前からそう察していたから、あのとき岩倉さんが聞きにきたのに「大丈夫だ、西郷はけっして野心などない」と請合ったり、在野の人などに西郷の心情を詳しく説明してやったが、そのために一時はとんでもない疑いを受けたこともあった。
「氷川清話より抜粋」
内村 鑑三
- 西郷隆盛を称える先駆者の辞 -
われらの祖先に主義の人ありしことは、余輩の常に誇るところなり。楠正成は少なくとも主義の人なりし。彼は勝敗のおもむくところを知りながら、義務と責任とを避けざりし。大石内蔵之助は主義の人なりし。彼は国法を犯しても彼の人生観を実行せり。
西郷隆盛は主義のひとなりし、彼は国家に勝りて正義を愛したり
(国民の友(1896年8月))
『敬天愛人』の言葉が西郷の人生観を要約している。
それはまさに知の最高極致であり、反対の無知は自己愛で有ります。
(代表的日本人)
維新における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くことになるであろう。ある意味においては、明治元年の日本の維新は西郷の維新であった。・・・・
余輩は、維新は西郷なくして可能であったかどうかを疑うものである。
西郷を殺したもの達がことごとく喪に服した。涙ながらに彼を葬った、そして涙と共に彼の墓は今日に至るまで、あらゆる人々によって訪れられている。かくの如くにして、武士の最大たるもの、また最後の(と余輩の思う)ものが世を去ったのである。
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